景徐周麟けいじょしゅうりん

時代 室町時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 景徐周麟(けいじょしゅうりん、永享12年(1440年)- 永正15年3月2日(1518年4月11日))は、室町時代後期の臨済宗の僧。父は大舘持房、母は赤松則友の娘。諱は周麟。道号は景徐。別に宜竹・半隠・対松。
幼い時に京都相国寺の用堂中材に師事して出家し、長じてその法を継いだ。応仁の乱の際には難を避けて近江永源寺に身を寄せていた時期もある。長享元年(1487年)に等持寺に住み、延徳2年(1490年)に遣明使の正使の命を受けたがこれを辞退している。明応4年(1495年)、相国寺に住し、翌5年(1496年)に3代将軍足利義満の檀那塔である鹿苑院に移り、永正5年(1508年)には相国寺に戻った。晩年は相国寺内に慈照院を建てて退隠した

景徐周麟(けいじょ しゅうりん、1440年〈永享12年〉 - 1518年4月11日〈永正15年3月2日〉)は、室町時代後期の臨済宗の僧侶です。父は大舘持房、母は赤松則友の娘であり、諱は周麟、道号は景徐、別号として宜竹・半隠・対松とも称されました。

生涯

出家と修行:幼少期に京都の相国寺で用堂中材に師事し、出家しました。成長後、その法を継承しています。
応仁の乱時:応仁の乱(1467年 - 1477年)の際には、戦火を避けて近江国の永源寺に身を寄せていました。
等持寺への住職:長享元年(1487年)に等持寺の住職となりました。
遣明使の辞退:延徳2年(1490年)には遣明使の正使に任命されましたが、これを辞退しています。
相国寺での活動:明応4年(1495年)に相国寺に住し、翌年には3代将軍足利義満の菩提を弔うための塔である鹿苑院に移りました。永正5年(1508年)には再び相国寺に戻り、晩年は相国寺内に慈照院を建立して隠居生活を送りました。
思想と影響

景徐周麟は、禅と儒教の調和を図る「禅儒一致」の思想を持ち、五山文学の発展にも寄与しました。彼の著作『翰林葫芦集』は、中国文化の影響を受けた作品として知られています。
WANFANG DATA

彼の生涯と業績は、室町時代の宗教・文化史を理解する上で重要な位置を占めています。