土佐光元とさみつもと
時代 | 室町時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 絵画 |
プロフィール | 1530-1569 戦国時代の画家。 享禄(きょうろく)3年生まれ。土佐光茂(みつもち)の長男。天文(てんぶん)10年従五位下,左近衛将監(さこんえのしょうげん)。永禄(えいろく)3年「紫式部石山寺参籠(さんろう)図」をかく。のち織田信長につかえ,永禄12年8月但馬(たじま)攻めの陣中で死去した。40歳。土佐宗家は廃絶した。 土佐光元(とさ みつもと、享禄3年(1530年) - 永禄12年8月(1569年))は、室町時代後期から戦国時代にかけて活躍した土佐派の絵師です。父は同じく絵師であった土佐光茂で、光元はその長男として生まれました。天文10年(1541年)には、従五位下・左近衛将監に叙任されています。 ウィキペディア 永禄3年11月11日(1560年12月8日)には、九条稙通が叔父・三条西公条による『源氏物語』の講釈終了を記念して、光元に「紫式部石山詣図」を描かせました。この作品は現在、宮内庁書陵部に所蔵されています。 ウィキペディア しかし、永禄12年(1569年)8月、光元は木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の但馬攻めに加わり、その陣中で40歳の若さで亡くなりました。この早世により、土佐家の直系は途絶えたとされています。 ウィキペディア 光元の確実な作品としては、前述の「紫式部石山詣図」が知られています。この作品は、後に「紫式部観月図」などと称される一連の作品の最古の作例とされ、その規範となったと考えられています。 ウィキペディア 光元の死後、土佐派は一時衰退しましたが、江戸時代初期に土佐光起(とさ みつおき)が宮廷の絵所預職を復興し、土佐派を再興しました。 ウィキペディア 光元の作品は、宮内庁書陵部や京都国立博物館、根津美術館などに所蔵されています。特に「紫式部石山詣図」は、九条家に伝来した由緒ある作品として知られています。 |