二条為氏にじょうためうじ

時代 鎌倉時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 二条 為氏(にじょう ためうじ)は、鎌倉時代中期の公卿・歌人。藤原北家御子左家の嫡流で、権大納言藤原為家の長男。和歌の家である二条家(二条派)の祖。

二条為氏(にじょう ためうじ、1222年 - 1286年10月3日)は、鎌倉時代中期の公家であり、和歌の名家・御子左家の嫡流として知られています。父は権大納言・藤原為家、母は宇都宮頼綱の娘です。彼は二条家(二条派)の祖として、和歌の世界で大きな影響力を持ちました。

生涯と官歴

1226年(嘉禄2年):正月に叙爵し、左中将、参議、右衛門督、権中納言などの要職を歴任しました。
1267年(文永4年):2月に正二位・権大納言に昇進しました。
1285年(弘安8年):出家し、法名を覚阿と名乗りました。
1286年(弘安9年):9月14日に65歳で亡くなりました。
和歌の活動

二条為氏は、亀山上皇の命により**『続拾遺和歌集』を編纂しました。また、宇都宮歌壇を中心とした歌集『新和歌集』の編纂にも携わりました。彼自身の作品は、子孫によって編纂された家集『大納言為氏卿集』**に収められており、各種勅撰和歌集には232首が採録されています。

家族関係と内紛

二条為氏は、同母弟の京極為教、異母弟の冷泉為相との関係が悪化し、和歌の創作や家督相続を巡って対立しました。1275年(建治元年)に父・為家が亡くなると、長男である為氏が御子左家を継承しましたが、継母の阿仏尼(冷泉為相の母)と播磨国細川庄の領地を巡って争いが起こりました。この訴訟は鎌倉幕府に持ち込まれ、二代にわたって続きました。最終的に、1313年(正和2年)に幕府の裁定により、領地は冷泉為相に帰属することとなり、この結果、御子左家は二条、京極、冷泉の三家に分裂しました。

評価と影響

『大日本史』では、二条為氏について「才思敏捷、能賦險題」と評価されています。彼の和歌は技巧的であり、難解な題材にも巧みに対応する才能があったとされています。彼の死後も、二条派は和歌の主流派として影響力を持ち続けました。

二条為氏の生涯は、和歌の発展と家族間の複雑な関係が交錯するものであり、鎌倉時代の文化と政治の動向を理解する上で重要な人物といえます。