藤原基通ふじわらのもとみち

時代 鎌倉時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 藤原 基通(ふじわら の もとみち、生没年不詳)は平安時代後期の陸奥の在庁官人。散位。
延久2年(1070年)に後三条天皇の勅命により始まった延久蝦夷合戦で、陸奥守源頼俊が出陣中に、国司の印と国の正倉の鍵を奪い、逃走する。そして、下野国で、下野守をしていた源義家に出頭して逮捕された。義家はこれを都に報告し、頼俊の罷免召還を要求する。頼俊はこの事件が原因で事実上失脚し、副将格の清原貞衡(清原真衡とする説、清原武貞とする説、清原武則の弟とする説、海道平氏出身で武貞の娘婿とする説などがある)が鎮守府将軍に任ぜられたのと対照的に延久蝦夷合戦の功を全く認められなかった。
基通の出自、系譜については全く不明であるが、国司の印や国の正倉の鍵に近づけ、史料に散位と記載されていることから、在庁官人であると見られている。また、不自然に下野まで逃亡し、源義家に投降していることから、前九年の役で源頼義、義家と主従関係を結んでいた可能性も指摘されている。陸奥に源頼俊が勢力を植えつけることを快く思わない義家の意を受け、頼俊の失脚を狙い事件を起したと見られている。

藤原基通(近衛基通)は、治承三年(1179年)ごろ、後白河法皇の信頼を受けて内大臣および関白に任じられた人物で、平家と源氏が激しく対立する激動の時代に活躍しました。彼は、これまで参議や納言といった官歴を経ずに、突如として大臣・関白に昇進した初めての例として、当時の貴族社会に大きな衝撃を与えました​
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【政治的経歴と主な出来事】

政界への台頭
治承三年、平清盛が後白河法皇に対して政変を起こし、松殿基房を失脚させる中で、基通は急速に出世し、内大臣としての重責を担うようになりました。安徳天皇(後鳥羽天皇)の即位を巡る混乱期にも、彼は重要な役割を果たし、初めは法皇側の立場から政治を運営していました。
木曾義仲との対立と拒絶
平家の衰退が進む中、1183年ごろ、木曾義仲が京都に進軍し、法皇を伴って都を離れるよう呼びかけた際、基通は七条大宮まで同行するも、途中で「法皇がまだ京にいる」として西進を拒否しました。この行動は、彼が朝廷における責任感や慎重さを示す一方で、武士勢力の台頭と対立する結果となりました​
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政権内部での権力闘争
木曾義仲は基通のこの反対を快く思わず、彼の攝政職を停止し、代わりに松殿基房の子・松殿師家を攝政に据えました。しかし、義仲が源頼朝に敗れると、師家もその支持を失い、基通は一時的に政界に復帰します。
しかし、その後、源頼朝は自らに有利な人物(九条兼実)を攝政に据えるべく、度重なる奏請を行い、結果として基通は再び攝政の座を追われ、管理していた庄園領の一部も奪われることとなりました。
再起と最終的な失脚
建久七年(1196年)には再び関白として復帰するものの、土御門天皇即位後は攝政としての役割を続けます。しかし、数年後、源通親の死去と後鳥羽上皇の支持により九条兼実の子・九条良経が台頭し、建仁二年(1202年)に基通は最終的に関白の座を退くことになりました。
【歴史的意義】
基通の政治経歴は、平家・源氏という二大勢力の抗争と、武士階層の台頭による従来の公家政治の終焉を象徴するものです。彼の出世とその後の失脚は、藤原氏としての矜持とともに、時代の流れに抗しきれない貴族政治の限界を露呈させ、鎌倉幕府成立後の新しい政治体制への移行を背景に、歴史的転換期の複雑な権力闘争の一端を担ったといえます。

以上のように、藤原基通は激動の時代において、朝廷内部の権力闘争や武士勢力の台頭といった歴史的変革の中で、その出世と失脚を通して、平家・源氏争いの混迷と貴族政治の衰退を象徴する存在となりました。