明極楚俊みんきそしゅん

時代 鎌倉時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 明極楚俊(みんきそしゅん、弘長2年(1262年) - 建武3年9月27日(1336年9月28日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、元から日本へ渡来した禅僧。明極は号。法諱が楚俊。俗姓は黄。仏日燄慧(えんね)禅師。

明極楚俊(みょうごく そしゅん、1262年 - 1336年)は、南宋末から元代にかけての高僧であり、67歳のときに日本へ渡り、禅の教えを広めました。彼は書家や文学者としても知られ、その影響は日本の文学や書道に大きな足跡を残しています。

生涯

明極楚俊は、南宋の景定3年(1262年)に明州慶元府昌国県(現在の中国浙江省寧波市鎮海区)で生まれました。俗姓は黄で、号を明極、法号を楚俊と称しました。幼少期より金陵(現在の南京市)の奉聖寺、瑞巌寺、普慈寺で修行し、その後、婺州(現在の浙江省金華市)の双林寺、径山寺、錢塘(現在の杭州市)の霊隠寺、慶元の天童寺、浄慈寺などで説法を行い、各地で「第一座」として迎えられました。

1328年(元徳2年)、67歳のときに明州から日本へ渡航し、翌年、大阪に広厳寺を創建しました。その後、関東を訪れた際、後醍醐天皇に招かれ、法を説き「焰慧禅師」の称号を賜りました。同年2月には、北条高時の招請で鎌倉の建長寺の住持となりました。

元弘の乱後、後醍醐天皇が再び政権を掌握すると、1333年(元弘3年)に京都の南禅寺の住持に任命され、翌年には建仁寺の住持も務めました。さらに、広厳寺の開山住持としても活動し、1336年、同寺の方丈で示寂しました。享年75歳。

遺産

明極楚俊の遺墨は、日本において「重要文化財」や「重要美術品」として多数保存されています。代表的なものとして、五島美術館所蔵の「明極楚俊墨跡 偈頌」や、根津美術館所蔵の「明極楚俊墨蹟 偈」などがあります。これらの書跡は、彼の高い書道技術と精神性を伝える貴重な資料となっています。

また、大分県日田市の岳林寺には、明極楚俊の木造坐像が安置されており、県指定有形文化財に指定されています。この像は、ヒノキ材の寄木造で、玉眼を嵌め込んだ写実的な表現が特徴です。

著作

明極楚俊の主な著作には以下のものがあります。

『夢窓明極唱和篇』:夢窓疎石との詩歌の唱和集。
『明極楚俊語録』:彼の説法や言行をまとめたもの。
『明極楚俊遺稿』:遺された詩文や書簡などを集めたもの。
これらの著作や遺墨を通じて、明極楚俊の思想や美学、そして日本の文化への影響をうかがい知ることができます。