西礀子曇せいかんしどん

時代 鎌倉時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 1249-1306 南宋(なんそう)(中国)の僧。
淳祐9年生まれ。臨済(りんざい)宗。文永8年来日。正安(しょうあん)元年一山一寧(いっさん-いちねい)にしたがい再来日。北条貞時に信任され鎌倉の円覚寺・建長寺住持となる。書画をよくした。嘉元(かげん)4年10月28日死去。58歳。浙江省出身。俗姓は黄(こう)。諡号(しごう)は大通禅師。道号は西礀ともかき,法名は「すどん」ともよむ。

西礀子曇(せいかん すどん、1249年 - 1306年)は、南宋出身の臨済宗楊岐派の僧侶であり、日本に禅を伝えた「二十四流」の一人として知られています。俗姓は黄氏で、浙江省台州仙居県の生まれです。

生涯と業績

初期の修行: 広度寺で出家した後、承天寺の石楼明や浄慈寺の石帆惟衍に師事し、禅の修行を積みました。
初来日: 1271年(文永8年)、鎌倉幕府第8代執権・北条時宗の招きで初めて日本を訪れ、禅の教えを広めました。
帰国と再来日: 1278年(弘安元年)に一度帰国し、天童寺の環渓惟一の下で蔵主を務め、紫岩寺の住持となりました。1299年(正安元年)には元の成宗の命により、一山一寧とともに再度来日しました。
日本での活動: 再来日後、円覚寺第6世、建長寺第11世の住持を務め、後宇多上皇に法を説き、北条貞時は弟子の礼をとりました。1306年(嘉元4年)10月28日、鎌倉の正観寺で示寂しました。
遺産と影響

西礀子曇の書跡として、重要文化財に指定されている「西礀子曇墨跡 与夢庵尺牘」があります。これは、彼が一度帰国した1278年以降に、臨安の浄慈寺から夢庵知蔵主という人物に宛てた手紙であり、五島美術館に所蔵されています。
GOTOH-MUSEUM.OR.JP

彼の弟子には明岩正因や安東円恵がおり、その法系は大通派または西礀派と称され、日本の禅宗の発展に大きな影響を与えました。
ウィキペディア

西礀子曇の活動は、鎌倉時代の日本における禅宗の普及と定着に重要な役割を果たし、彼の教えと影響は現在も多くの禅寺や僧侶たちに受け継がれています。