卜部兼方うらべかねたか
時代 | 鎌倉時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 古筆 |
プロフィール | 卜部 兼方(うらべ の かねかた /やすかた、生没年不詳)は、鎌倉時代中・後期の神祇をつかさどる官人、神道家。名は懐賢とも。神祇権大副・卜部兼文の子。子に兼彦がいた。官位は正四位下・神祇権大副、平野神社社務。 父兼文ら平野社系卜部氏に代々伝わる家説と奈良時代以降の数々の『日本書紀』注釈を基に『釈日本紀』を著し、後に吉田神道に大きな影響を与えた。『釈日本紀』との関係を示す兼方の書写になる弘安9年(1286年)の奥書のある『日本書紀』神代巻二巻の卜部家本が、文化庁に所蔵されている。 弘安10年(1287年)2月から正応元年(1288年)2月にかけて山城守に任ぜられていたという記録がある[1]。 卜部氏は古代の祭祀貴族の一つで、卜占(ぼくせん)による吉凶判断を業としていた氏族である。大中臣氏とともに代々神祇大副・少副を継承した。平安時代中期には平野社系と吉田社系の二流に分かれ、兼方の平野社系は卜部氏始祖卜部平麻呂が平野社領となっていることから本来なら宗家の立場であるが、吉田神社が藤原氏の氏神であることもあり勢力は二分され、氏長者も二流が交替で受け継ぎ、それぞれ家学として日本書紀等の古典の研究をしていた。 室町時代に入り、吉田社系が公卿を出したこともあり盛んになると、平野社系は衰え、兼方の8代孫兼緒の代で絶えた。平野社系は、吉田社系から兼永が養子に入り継承し、その子孫が藤井充行の代以降藤井家を称し堂上家となっている。 卜部兼方という人物は、平安時代の宮廷内において占術(卜占)や陰陽道の専門家として活躍したと伝えられる一族・卜部の人物です。ただし、直接の伝記資料は断片的で、具体的な生没年や個別の業績については明確な記録が少なく、後世の伝承や散見される史料から彼の存在や役割が推察されるに留まります。 以下、現存する情報や伝承に基づいて、卜部兼方についてまとめます。 1. 生い立ちと出自 卜部氏の一族として 卜部兼方は、もともと卜占や陰陽道に長けた卜部氏の一員と伝えられます。卜部氏は中国の易経や卜占の理論を学び、日本に伝わった占術の伝統を受け継ぎ、宮廷内で吉凶判断や天文・暦の調整などに関わる重要な役割を果たしていました。 宮廷での仕官 伝承によれば、兼方は平安時代中期以降、宮廷に仕え、政治上の重大な決定において天の意を占ったり、災厄の兆しを読み取る役目を担ったとされます。 2. 占術・陰陽道における業績 占断の技法 卜部兼方は、中国伝来の易経や卜占の知識を基に、独自の占断技法を発展させたと伝えられています。彼は、自然現象や夢、奇異な出来事などを通じて天の兆しを読み解き、吉凶を判断することで、宮廷内の政治判断や祭祀・行事の運営に寄与しました。 政治・宗教への助言 当時、政治や宗教の面では「天の意」を重んじる風潮が強かったため、兼方の占断は、政務や国家行事、災害対策などにおいて重要な参考とされました。これにより、彼の判断が実際の政治決定に影響を及ぼした可能性があります。 3. 後世への影響と伝承 陰陽道の伝統 卜部兼方の占術は、平安時代における陰陽道の実践例の一つとして、後の陰陽師たちや占術家に影響を与えたと考えられます。卜部氏の伝統は、後世にわたって占いや吉凶判断の根幹をなす知識として伝えられ、宮廷文化の一端を担いました。 史料の散逸と伝承 直接の詳細な伝記は現存していませんが、古文書や家譜、または後世の陰陽道に関する論考の中で、卜部兼方の名前が言及されることから、彼が占術の専門家として一定の評価を受けていたことが窺えます。現代の研究者も、こうした断片資料をもとに、平安時代の占術文化や宮廷における陰陽道の役割を解明しようと試みています。 4. まとめ 卜部兼方は、卜占や陰陽道の伝統を受け継いだ卜部氏の一族の中で、宮廷に仕えながら天の兆しを読み解く占術家として活躍した人物です。彼は、中国伝来の易経や卜占の知識を基礎に、政治や宗教の面で重要な役割を果たしたと伝えられ、その占断技法は後世の陰陽師や占術家に影響を与えました。なお、具体的な生涯の詳細については史料が散逸しているため、今後の研究や新たな資料発見によってより詳しい人物像が明らかになることが期待されています。 以上が、卜部兼方に関する現状で伝えられる情報とその意義です。 |