藤原頼長ふじわらのよりなが

時代 平安時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 古筆・墨蹟
プロフィール 藤原 頼長(ふじわら の よりなが)は、平安時代末期の公卿。兄の関白・藤原忠通と対立し、父・藤原忠実の後押しにより藤原氏長者・内覧として旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により悪左府(あくさふ)の異名を取った。後に鳥羽法皇の信頼を失って失脚。政敵の美福門院・忠通・信西らに追い詰められ、保元の乱で敗死した。男色はじめ当時の風俗を克明に記した日記『台記』でも有名。

**藤原頼長(ふじわら の よりなが、1120年5月 - 1156年8月1日)**は、平安時代後期の公卿であり、藤原北家の出身です。その苛烈な性格から「悪左府(あくさふ)」と称される一方、学識の高さから「日本一の大学生」とも評されました。彼は保元の乱において崇徳上皇側につき、敗北して命を落としました。

生涯

幼少期と家族背景
藤原忠実の次男として生まれ、幼名を菖蒲若(あやわか)といいました。母は土佐守・藤原盛実の娘です。父・忠実の寵愛を受け、幼少期から学問に励みました。

政治的昇進
11歳で元服し、内裏および院の昇殿を許されると、異例の速さで昇進を重ねました。1136年(保延2年)には内大臣、1149年(久安5年)には左大臣に任じられました。また、養女の多子を近衛天皇の皇后とし、藤氏長者や内覧の地位を得て、兄・忠通と並ぶ権勢を誇りました。

保元の乱と最期
近衛天皇の崩御後、後白河天皇の即位に反発し、崇徳上皇とともに1156年(保元元年)に挙兵しましたが、敗北しました。逃走中に負傷し、その傷がもとで亡くなりました。享年37歳。

人物像と業績

学識と性格
頼長は経書に通じ、合理的精神の持ち主として知られました。その厳格な性格から「悪左府」と呼ばれましたが、学問においては「日本一の大学生」とも称されました。日記『台記』を著し、当時の政治や文化を詳細に記録しています。

男色関係
頼長は男色家としても知られ、藤原公能など多くの男性と関係を持ちました。これらの関係は政治的な結びつきとしても機能していたとされています。

家族

父:藤原忠実
母:藤原盛実の娘
兄:藤原忠通
妻:藤原幸子(徳大寺実能の娘)
子:
藤原師長
藤原兼長
藤原隆長
藤原範長
養女:藤原多子(近衛天皇の皇后)
頼長の生涯は、平安時代末期の政治的動乱と密接に関わっており、その学識と苛烈な性格は後世に大きな影響を与えました。