源俊頼みなもとのとしより
時代 | 平安時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 古筆・墨蹟 |
プロフィール | 源 俊頼(みなもと の としより、天喜3年(1055年) - 大治4年1月1日(1129年1月22日))は、平安時代後期の官人・歌人。宇多源氏。大納言・源経信の三男。官位は従四位上・木工頭。 **源俊頼(みなもとの としより、1055年〈天喜3年〉 - 1129年〈大治4年〉)**は、平安時代後期の貴族・歌人であり、宇多源氏の出身です。父は大納言・源経信、母は土佐守・源貞亮の娘です。彼は和歌の革新者として知られ、多くの和歌集や歌論書を編纂・著述しました。 生涯 源俊頼は、幼少期に修理大夫・橘俊綱の猶子となり、音楽や和歌の才能を磨きました。堀河天皇の近習楽人として活動し、承暦2年(1078年)の「承暦内裏歌合」には楽人として参加しています。その後、右近衛少将や左京権大夫などの官職を歴任し、最終的には従四位上・木工頭に至りました。しかし、官位よりも和歌の分野での活躍が際立っています。 和歌活動 俊頼は、堀河院歌壇の中心人物として、多くの歌合に参加し、作者や判者として活躍しました。特に「堀河百首」の企画・推進に深く関与し、これは後の百首歌の先駆けとなりました。また、天治元年(1124年)には、白河法皇の命により『金葉和歌集』を撰集しています。彼の和歌は、勅撰和歌集に約201首が収録されており、『金葉和歌集』や『千載和歌集』では最多入集歌人となっています。 代表作 『小倉百人一首』には、以下の和歌が収められています。 憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ 激しかれとは 祈らぬものを (訳:つれないあの人が私にもっと冷たくなるようにと、初瀬山の山おろしの風よ、激しく吹いてくれとは祈っていないのに。) この歌は、『千載和歌集』にも収録されており、恋の切なさを詠んだ名歌として知られています。 著作 『散木奇歌集(さんぼくきかしゅう)』:自撰の家集で、多様な和歌を収めています。 『俊頼髄脳(としよりずいのう)』:歌論書であり、和歌の作法や心得を述べています。 評価と影響 源俊頼は、革新的な歌風で知られ、万葉語や俗語、奇語を積極的に取り入れ、和歌の表現の幅を広げました。彼の歌論書『俊頼髄脳』では、「珍しき節」を重視し、新しい表現を追求する姿勢が見られます。その影響は、後の藤原俊成や藤原定家など、中世和歌の発展にも大きく寄与しました。 晩年には出家し、1129年(大治4年)に75歳で没しました。彼の革新的な和歌とその精神は、現在でも多くの人々に影響を与え続けています。 |