小大君こだいのきみ

時代 平安時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 古筆・墨蹟
プロフィール 小大君(こおおきみ、天慶3年(940年)から天暦4年(950年) - 寛弘2年(1005年)もしくは寛弘8年(1011年)頃[1])は、平安時代中期の女流歌人。系譜が伝わらず父母については不明である[2]。三十六歌仙、および女房三十六歌仙の一人。
はじめ円融天皇の中宮藤原媓子に女房として仕え、のち三条天皇(居貞親王)の東宮時代に下級の女房である女蔵人(にょくろうど)として仕え、東宮左近とも称された。藤原朝光と恋愛関係があったほか、平兼盛・藤原実方・藤原公任などとの贈答歌がある。
『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に20首が入集し、特に『後拾遺和歌集』では巻頭歌として採られている。家集に『小大君集』がある。散逸家集『麗華集』の断簡「香紙切」や、三十六人集の断簡「御蔵切」の筆者に擬せられているものの、研究の進展でこれらは院政期の筆跡と考えられている。

小大君(こおおきみ)
小大君(こおおきみ、?- 生没年不詳)は、平安時代中期の女流歌人で、藤原定頼(ふじわら の さだより)と恋愛関係があったことで知られる。 『後拾遺和歌集』『新古今和歌集』などの勅撰和歌集に作品が収められている。

基本情報

生没年:不詳(10世紀後半 - 11世紀前半)
活躍時期:平安時代中期
主な和歌掲載書:
『後拾遺和歌集』
『新古今和歌集』
『百人一首』にも採録
代表作(百人一首)
「おほえやま いく野の道の 遠ければ
まだふみも見ず 天の橋立」 (意訳) 近江の比叡山から生野の道は遠いので、まだ手紙(文)も見ていませんし、天の橋立にも行ったことがありません。
生涯と人物像

藤原定頼との関係
小大君は藤原定頼と恋愛関係にあり、多くの恋の歌を交わした。
しかし、定頼の愛情が冷めていったことで、切ない歌を詠むようになった。
彼女の恋愛歌には、未練や切なさがにじみ出ており、平安時代の恋愛観をよく表している。

和歌の特徴
繊細で情緒的な表現を得意とした。
恋の歌が多く、相手に対する思いや未練が詠み込まれている。
「おほえやま〜」の歌は、比叡山や生野、天の橋立といった地名を詠み込んでおり、地理的な距離と恋の心理的距離を巧みに重ね合わせた歌である。

小大君の影響

百人一首に選ばれたことで、後世にも広く知られる。
恋愛歌の名手として平安時代の和歌文化に名を残した。
藤原定頼との関係が『枕草子』にも登場し、平安時代の貴族文化の一端を示している。
まとめ

平安時代中期の女流歌人。
藤原定頼との恋愛を題材にした歌を多く残す。
『百人一首』に収録されており、特に「おほえやま いく野の道の 遠ければ…」の歌が有名。
繊細で情緒的な和歌を詠み、恋愛歌人として高く評価されている。
小大君は、平安時代の恋愛詩人として、今なお多くの人々に親しまれている存在である。