足利義政あしかがよしまさ
時代 | 室町時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。 足利義政(あしかが よしまさ)について詳しく解説 **足利義政(1436年 - 1490年)**は、**室町幕府の第8代将軍(1449年 - 1473年)**です。 彼の治世は、室町幕府の権力が衰退し、戦国時代へと突入する大きな転換点となりました。特に、**応仁の乱(1467年 - 1477年)**が起こり、日本全国の戦国時代の引き金を引いた将軍として知られています。 一方で、義政は文化面で大きな功績を残し、**東山文化(ひがしやまぶんか)**を築いたことで、日本の美意識や芸術に大きな影響を与えました。 基本情報 生年: 1436年(永享8年) 没年: 1490年(延徳2年) 在位: 1449年 - 1473年(24年間) 父: 足利義教(第6代将軍) 母: 日野重子(貴族・日野家の出身) 妻: 日野富子(政治に強い影響を持った) 足利義政の政治と施策 1. 幼少期と将軍就任 義政は、父・足利義教が**嘉吉の乱(1441年)**で赤松満祐に暗殺された後、まだ8歳で家督を継ぎました。しかし、彼が正式に将軍になったのは13歳(1449年)の時でした。 彼の治世は、将軍としての権威が低下し、幕府の支配力が弱まる時代に入っていました。 2. 応仁の乱の勃発(1467年 - 1477年) 義政の時代最大の事件は、「応仁の乱」です。 〈原因〉〉 義政は政治に興味を失い、贅沢な生活や文化の発展にのめり込むようになりました。 そんな中で、後継者問題が発生し、幕府の支配が揺らぎます。 義政は将軍を引退し、弟の足利義視(よしみ)に後を継がせる予定だった。 しかし、義政の正室・日野富子が「自分の息子(足利義尚)を次の将軍にしたい」と主張。 これが、有力守護大名たちの派閥争いに発展。 結果として、細川勝元と山名宗全がそれぞれの派閥を率い、京都を戦場とする「応仁の乱」が勃発しました。 〈結果〉 戦争は10年以上続き、京都は荒廃。 室町幕府の権威は完全に低下し、大名たちは自立化していった。 この戦乱をきっかけに、日本は戦国時代へと突入。 3. 東山文化の発展 義政の政治能力は低かったものの、芸術や文化の保護者としては大きな功績を残しました。 彼が京都・東山に建設した「銀閣(慈照寺)」は、東山文化の象徴とされています。 東山文化の特徴 簡素で洗練された美しさ(わび・さびの美学) 禅宗の影響を受けた建築・庭園 水墨画の発展(狩野派、雪舟) 茶の湯(村田珠光が「侘茶」を確立) 能や連歌の発展 義政の文化的な功績は、後の「桃山文化(安土桃山時代)」や「江戸時代の茶道文化」にも影響を与えました。 4. 晩年と引退 義政は、応仁の乱が終息した後も政治には関心を持たず、東山の銀閣で隠居生活を送りました。 1485年には正式に息子・足利義尚に将軍職を譲り、以降は文化活動に専念しました。 彼は1490年に54歳で亡くなり、東山文化の象徴としての人生を終えました。 足利義政の評価 〈良い評価〉 東山文化を発展させ、日本の美意識に大きな影響を与えた。 銀閣(慈照寺)を建て、わび・さびの文化を象徴する建築を残した。 水墨画、茶道、能、庭園文化を発展させた。 〈悪い評価〉 政治的には無能で、幕府の権威を大きく低下させた。 応仁の乱を引き起こし、日本を戦国時代に突入させた。 将軍としての責任感が薄く、戦乱を放置して文化に逃げた。 まとめ 足利義政は室町幕府第8代将軍(1449-1473年)。 「応仁の乱」(1467-1477年)を引き起こし、戦国時代の幕を開けた。 東山文化を発展させ、銀閣や茶道、水墨画の発展に貢献。 政治的には無能とされるが、文化面での功績は日本史に大きな影響を与えた。 足利義政は「政治的には失敗したが、文化的には大成功した将軍」として評価される人物です。 彼の時代に起こった「応仁の乱」は、日本を戦国時代へと突入させましたが、一方で東山文化の発展により、日本の美的価値観を形成する重要な役割を果たしました。 もし、さらに詳しく知りたい点(銀閣寺の建築、応仁の乱の詳細、東山文化の芸術など)があれば、教えてください! |