足利義持あしかがよしもち

時代 室町時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 絵画
プロフィール 足利 義持(あしかが よしもち)は、室町幕府第4代将軍(在任:応永元年(1394年) - 応永30年(1423年))。父は3代将軍・足利義満。母は安芸法眼の娘で側室の藤原慶子。
父の死後、勢力を盛り返す守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回った将軍で、室町幕府の歴代将軍の中で比較的安定した政権を築き上げた。なお、義持の将軍在職28年は歴代室町将軍中最長の在任期間である。

足利義持(あしかが よしもち)について詳しく解説
足利義持(1386年 - 1428年)は、室町幕府の第4代将軍(1394年 - 1423年)です。父・足利義満(第3代将軍)から将軍職を譲られましたが、義満の政治とは異なる路線を取り、幕府の安定化と天皇・公家との関係改善に努めました。彼の治世は「応永の治」と呼ばれ、比較的安定した時代でした。

基本情報

生年: 1386年(至徳3年 / 元中3年)
没年: 1428年(正長元年)
在位: 1394年 - 1423年(29年間)
父: 足利義満(室町幕府第3代将軍)
母: 日野康子(室町幕府の権力を支えた日野家の出身)
官位: 征夷大将軍、右大臣、大納言など
足利義持の政治と施策

1. 父・足利義満の政策を否定
足利義持の政治は、父・義満の政策とはかなり異なりました。

義満は室町幕府の権力を絶対化し、天皇家よりも上に立とうとしました(「日本国王」問題)。
明(中国)との勘合貿易を積極的に推進し、「日本国王」として明から認められることで国際的な地位を高めました。
しかし、義持はこれに反発し、義満の死後(1408年)、「日本国王」称号の放棄を決定しました。これは、朝廷との関係を修復し、幕府の権威を国内で確立するための方針でした。

2. 明との国交断絶
義持は、父・義満が推進した明との勘合貿易を停止し、国交を断絶しました(1411年)。これは、義満の政策があまりに明に対して臣従的だったためであり、幕府の独立性を重視する義持の考えによるものでした。

→ 結果として、中国からの正式な輸入が止まり、貿易は民間の密貿易に依存することに。

3. 幕府の安定化と守護大名との関係
義持の治世は「応永の治」と呼ばれ、比較的平和な時代でした。しかし、守護大名の勢力が強まる中で、幕府の安定を維持することが求められました。

義満の時代に権力を持ちすぎた有力守護大名の制御を図る。
有力な守護である大内氏、畠山氏、山名氏、細川氏らとの関係を調整。
結果として、義満の時代よりも幕府と守護大名の関係はバランスが取れたものになりました。

4. 朝廷との関係修復
義満の時代には、室町幕府が天皇家の権威を抑えつけていました。しかし、義持はそれを改め、朝廷との関係を回復しました。

義満が進めた**南北朝合一(1392年)**を維持しつつ、北朝(持明院統)の権威を再強化。
義満の強権政治を見直し、公家との協調路線を取る。
これにより、幕府と朝廷の関係は比較的安定しました。

5. 後継者問題
義持は1423年に将軍職を退き、弟の足利義量(よしかず)に譲りましたが、義量は1425年に若くして死去。その後、義持は将軍職を誰にも譲らず、次の将軍を決めないまま1428年に死去しました。

→ その後、幕府内で後継者争いが発生し、くじ引きによって足利義教(第6代将軍)が選ばれるという異例の事態となります(「正長の政変」)。

足利義持の評価

〈良い評価〉
幕府の安定化を図り、義満の強権政治を緩和した。
朝廷との関係を修復し、室町幕府の基盤を安定させた。
明との対等な関係を重視し、独立性を守ろうとした。

〈批判的な評価〉
明との貿易を停止したことで経済が停滞した。
義満の外交政策を否定した結果、国際的な孤立が進んだ。
後継者問題を解決しないまま死去し、幕府内に混乱を招いた。

まとめ

**足利義持は室町幕府第4代将軍(1394-1423年)**で、義満の政治を見直し、幕府の安定化に努めた。
義満が推進した明との国交を断絶し、幕府の独立性を重視した。
**「応永の治」**と呼ばれる比較的平和な時代を築いた。
後継者問題を解決しないまま死去し、幕府に混乱をもたらした。
足利義持は、父・義満とは異なる政治スタイルを取り、室町幕府を安定させた将軍でした。しかし、彼の死後は次の将軍選びを巡って混乱が生じ、幕府の弱体化が進んでいくことになります。

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