足利直義あしかがただよし

時代 鎌倉時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 足利 直義(あしかが ただよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。河内源氏義国流、足利氏の嫡流・足利貞氏の三男。室町幕府初代将軍、足利尊氏の同母弟。足利将軍家の一門。世に副将軍と称される。
兄・尊氏の覇業を補佐して室町幕府創設に貢献し、兄弟による二頭政治によって政権の基礎を固めた。しかし観応の擾乱で失脚し、復権を企んで政敵の高師直一族を討ち果たした。しかし尊氏とも対立し、後に毒殺ともされる急死を遂げた。

足利直義(あしかが ただよし)について
足利直義(1306年 - 1352年)は、室町幕府を開いた足利尊氏の実弟であり、幕府の政務を担当した重要な人物です。尊氏とともに鎌倉幕府を滅ぼし、室町幕府の創設に貢献しましたが、幕府内での対立(観応の擾乱)により失脚し、最期は毒殺されたとされています。

基本情報

項目 内容
生誕 1306年(徳治元年)
出身地 京都または鎌倉
家系 足利氏(清和源氏)
父 足利貞氏
母 上杉清子
兄 足利尊氏(室町幕府初代将軍)
役職 室町幕府の政務統括(執事的役割)
死没 1352年(観応3年 / 正平7年)
死因 毒殺(尊氏の命とされる)
足利直義の生涯と主な出来事

1. 幼少期と幕府滅亡への道
1306年(徳治元年)、足利貞氏の次男として生まれる。
兄・足利尊氏とともに、鎌倉幕府の有力御家人として育つ。
1333年(元弘3年)、尊氏とともに挙兵し、鎌倉幕府を滅ぼす。
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の**「建武の新政」**に協力するが、武士の不満が高まる。
2. 室町幕府の設立
1336年(建武3年)、尊氏が建武の新政を否定し、後醍醐天皇と対立(建武の乱)。
1338年(暦応元年)、兄・尊氏が「征夷大将軍」に就任し、室町幕府を開く。
直義は幕府の政治・行政の中心人物となり、実質的な執権として政務を担当。
直義の政治方針

公家や寺社を重視する伝統的な政治を志向。
武士の暴力を抑え、法を重視する統治を目指す。
尊氏とは異なり、南朝との和平を模索。
3. 尊氏との対立(観応の擾乱)
尊氏の側近「高師直(こうのもろなお)」と対立し、幕府内で権力争いが激化。
直義は高師直を「専横な悪臣」として排除しようとする。
1350年(観応元年)、ついに「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」が勃発。
観応の擾乱の経過

1350年:直義派と高師直派が対立。
1351年:直義が尊氏を一時的に失脚させる。
同年:尊氏が巻き返し、高師直は暗殺される。
直義は出家し、幕政から引退するが、再び復帰を目指す。
4. 足利直義の最期
1352年(観応3年)、尊氏によって鎌倉へ幽閉される。
その後、毒を盛られて死亡(尊氏の命とされる)。
直義の死によって、尊氏が完全に幕府の支配権を握る。
足利直義の政治と評価

1. 法治を重視した統治
御成敗式目(鎌倉時代の武士法)の精神を継承し、武士の秩序を重視。
尊氏が「武士のリーダー」として戦いに傾倒したのに対し、直義は「法と秩序による統治」を目指した。
2. 尊氏との違い
比較 足利尊氏 足利直義
性格 柔軟で実利重視 厳格で法律重視
政治手法 武士の統率に長ける 武士の暴力を抑えようとする
戦争 南朝と積極的に戦う 和平を模索
高師直 重用 敵視
直義の政治は、現代の視点では「理想的」だが、当時の武士社会には合わなかったとも言える。
足利直義の影響

室町幕府の初期体制に大きな役割を果たす。
直義の死後も、彼の家臣たち(直義党)は幕府と戦い続けた。
彼の法治政治の考えは、後の幕府統治にも影響を与えた。
まとめ

項目 内容
生没年 1306年 - 1352年
役職 室町幕府の政務統括
主な出来事 鎌倉幕府の滅亡、室町幕府の創設、観応の擾乱
政治方針 法治重視、公家や寺社との関係強化
最期 尊氏によって毒殺
足利直義は、兄・尊氏とともに室町幕府を築いた重要な人物でした。しかし、法治を重視する姿勢が武士の実力主義と衝突し、最終的に失脚しました。もし直義が長く政権を担っていたら、室町幕府はより安定した政権になったかもしれません。