親鸞聖人しんらんしょうにん
時代 | 鎌倉時代 |
---|---|
カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 親鸞(しんらん、承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日 [注釈 3])は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。浄土真宗の宗祖とされる[注釈 4]。 法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え[1]」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地につつましい念仏道場を設けて教化する形をとる。親鸞の念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)が完成した寛元5年(1247年)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。 親鸞聖人(しんらん しょうにん)について **親鸞(しんらん、1173年 - 1263年)**は、鎌倉時代の僧侶であり、浄土真宗(じょうどしんしゅう)の開祖です。師である法然の教えを受け継ぎながら、独自の仏教観を展開し、「悪人正機説(あくにんしょうきせつ)」を唱え、阿弥陀仏の救済を強調しました。武士や庶民にも仏教を広め、日本の宗教史に大きな影響を与えました。 基本情報 項目 内容 生誕 1173年(承安3年) 出身地 京都(藤原氏の一族とも言われる) 法名 親鸞(幼名:範宴 はんねん) 宗派 浄土真宗(法然の浄土宗から派生) 師匠 法然 主な著作 『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』、『歎異抄(たんにしょう)』 没年 1263年(弘長2年) 墓所 京都・大谷廟堂(現在の東本願寺、大谷本廟) 親鸞の生涯と主な出来事 1. 幼少期と出家 1173年(承安3年)、京都の貴族の家に生まれる。(父母については不明) 9歳の時、比叡山延暦寺に出家し、仏教を学び始める。 しかし、比叡山での厳しい修行に疑問を抱き、**「本当に救われる道とは何か?」**と悩む。 2. 法然との出会いと浄土宗の受容 29歳(1201年頃)、比叡山を下り、法然(浄土宗の開祖)のもとへ行く。 法然の教えに感銘を受け、「阿弥陀仏の本願によってすべての人が救われる」という**「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」**の教えを学ぶ。 「念仏を唱えることで極楽浄土に往生できる」と説く法然の教えに深く帰依。 3. 浄土宗弾圧と流罪 1207年(承元5年)、法然とその門弟が幕府によって弾圧を受ける。 「専修念仏」が従来の仏教界と対立したため、比叡山の天台宗などから告発される。 親鸞も越後(新潟県)へ流罪となる(越後流罪)。 流罪中、独自の仏教観を深め、「悪人正機説」を確立。 「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」(『歎異抄』より) 善人ですら阿弥陀仏の力によって救われるなら、悪人こそ真に救われるべき存在である、という教え。 4. 関東での布教活動 1211年(建暦元年)、赦免されるが京都には戻らず、関東(現在の茨城・栃木周辺)で布教。 貴族や武士ではなく、農民や庶民に念仏の教えを広める。 「自力で悟りを開くのではなく、阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を称えれば誰でも救われる」と説く。 5. 京都帰還と『教行信証』の執筆 1235年頃(62歳)、京都へ戻る。 **『教行信証』**という浄土真宗の根本教典を執筆し、自らの教えを体系化。 6. 晩年と死 晩年は布教よりも、著作を通じて教えを広めることに力を入れる。 1263年(弘長2年)、90歳で死去。 死後、親鸞の教えは弟子や信徒によって受け継がれ、浄土真宗として発展。 親鸞の教えと特徴 1. 阿弥陀仏の本願と「他力本願」 「他力本願(たりきほんがん)」 とは、自分の努力(修行)ではなく、阿弥陀仏の慈悲にすべてを任せること。 「善行を積むことで悟りを開く」という考えを否定し、ただ阿弥陀仏の力を信じて念仏を唱えることが救いに繋がると説く。 2. 悪人正機説(あくにんしょうきせつ) 人間は本質的に「煩悩にまみれた存在」であり、完全に善人にはなれない。 だからこそ、阿弥陀仏の本願によって救われるべき存在は、むしろ**「悪人」こそが真に救われる対象**である。 3. 在家仏教 親鸞は「僧侶と在家の区別は不要」と考え、妻帯(結婚)し、子どもをもうける。 従来の仏教の戒律を破る形になったが、これによって仏教が武士や庶民の間に広まりやすくなった。 そのため、浄土真宗では**「僧侶の妻帯」が認められる**。 親鸞の主な著作 著作 内容 『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』 浄土真宗の根本教典。阿弥陀仏の本願と念仏の重要性を説く。 『歎異抄(たんにしょう)』 親鸞の弟子、唯円(ゆいえん)が記録した語録。親鸞の教えが最も分かりやすく表現されている。 親鸞の影響 浄土真宗は、日本最大の仏教宗派となり、特に江戸時代以降に広まる。 親鸞の「念仏一つで救われる」という教えは、仏教を庶民に開放し、多くの人々に受け入れられた。 彼の「在家仏教」の精神は、現代の日本仏教にも影響を与えている。 まとめ 項目 内容 生没年 1173年(承安3年) - 1263年(弘長2年) 宗派 浄土真宗の開祖 思想 他力本願、悪人正機、念仏の重要性 主な著作 『教行信証』『歎異抄』 主な出来事 法然に師事、流罪、関東で布教、京都帰還 影響 庶民仏教の発展、念仏信仰の普及、僧侶の妻帯文化 親鸞は、仏教を特権階級のものではなく、庶民にも広めた革新的な僧侶でした。彼の教えは、現在も多くの人々に信仰され、浄土真宗として発展し続けています。 |