平宗盛たいらのむねもり

時代 平安時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 古筆・墨蹟
プロフィール 平 宗盛(たいら の むねもり)は、平安時代末期の平家一門の武将・公卿。平清盛の三男。母は清盛の継室・平時子。時子の子としては長男であり、安徳天皇の母・建礼門院は同母妹である。官位は従一位行内大臣。通称は屋島大臣など。

平宗盛(たいら の むねもり)とは?
平宗盛(1147年 - 1185年)は、平安時代末期の武将・公卿で、平清盛の三男です。平家政権の後継者として平家滅亡の中心人物となり、最終的には壇ノ浦の戦いで敗れ、源頼朝によって処刑されました。彼は父・清盛ほどの政治的手腕や武勇を持たなかったため、「平家衰退の象徴」ともされることがあります。

1. 平宗盛の出自と家系

平宗盛は、平家一門の最重要人物である平清盛の三男として生まれました。

① 家系
人物 関係
平忠盛 祖父(平家の基盤を築く)
平清盛 父(平家政権を確立)
平宗盛 本人(平家の後継者)
平重衡 弟(南都焼討を指揮)
平知盛 弟(壇ノ浦で奮戦)
清盛の嫡男だった平重盛が1179年に病死したため、宗盛が後継者となりました。しかし、重盛に比べると能力不足で、頼りない指導者と評価されることが多いです。

2. 平宗盛の生涯

① 平家政権の継承
1179年:父・清盛がクーデターを起こし、後白河法皇を幽閉。
1181年:清盛が病死し、宗盛が平家の棟梁となる。
しかし、武勇や政治力に欠け、周囲の平家武将の補佐に頼ることが多かった。
② 源氏との戦い
1180年以降、源頼朝・木曾義仲・源義経らの挙兵が相次ぎ、平家は戦いを強いられることになる。

1180年:富士川の戦いで、宗盛率いる平家軍が源頼朝に敗走。
1183年:倶利伽羅峠の戦いで木曾義仲に大敗し、京を追われて西へ落ち延びる(都落ち)。
1184年:一時、福原京(現在の神戸)で政権を維持しようとするが、源義経・範頼の軍勢に敗れ、再び逃亡。
③ 壇ノ浦の戦いと平家滅亡
1185年:長門国壇ノ浦(現在の山口県)で、宗盛率いる平家軍と、源義経率いる源氏軍が激突。
宗盛は指揮官だったが、軍事的な才能に乏しく、弟の知盛が実際の指揮を担当していた。
戦いの終盤、安徳天皇(宗盛の甥)と二位尼(清盛の妻)が入水し、平家は滅亡。
宗盛は捕虜となり、源氏に囚われる。
3. 平宗盛の最期

① 源頼朝との対面
宗盛は京へ護送され、源頼朝の前で尋問を受けた。
頼朝は「戦の勝敗は時の運。宗盛は助けてもよいのでは?」と一時考えたが、家臣たちの反対により処刑を決定。
② 斬首
1185年6月、宗盛とその息子・清宗は、鎌倉から京へ送られ、六条河原で斬首された。
『平家物語』では、宗盛は最後まで命乞いせず、堂々とした態度を見せたと伝えられる。
4. 平宗盛の人物像

① 武将としての評価
宗盛は父・清盛のような果断さや、弟・知盛のような軍才に恵まれなかった。
軍事指揮官としての能力が低く、敗戦が続いたため、**「平家滅亡の象徴」**とされることが多い。
② 平家の家長としての評価
温厚な性格で、家臣を大切にしたと言われる。
しかし、平家の一族や家臣たちは彼の指導力を不安視していた。
③ 『平家物語』における宗盛
『平家物語』では、宗盛は頼りない指導者として描かれることが多い。
ただし、処刑の際には潔く振る舞い、「最後は立派だった」と評価される。
5. まとめ

項目 内容
生没年 1147年 - 1185年
父 平清盛
役職 平家の棟梁、太政大臣
軍事的評価 指揮官としては無能と評されることが多い
主な戦い 富士川の戦い、倶利伽羅峠の戦い、一ノ谷の戦い、壇ノ浦の戦い
最期 壇ノ浦で捕らえられ、六条河原で斬首
平宗盛は、平家政権を担った最後の棟梁でしたが、軍事的・政治的手腕には欠け、平家滅亡の責任を負わざるを得ない人物でした。