平頼盛たいらのよりもり

時代 平安時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 古筆・墨蹟
プロフィール 平 頼盛(たいら の よりもり)は、平安時代末期の平氏一門の武将・公卿。平忠盛の五男。母は修理大夫・藤原宗兼の女、宗子(池禅尼)。通称は池殿、池大納言。平清盛の異母弟。清盛の男兄弟の中で壇ノ浦の戦い後も唯一生き残った人物である。


平頼盛(たいら の よりもり)とは?
平頼盛(1123年 - 1186年)は、平安時代末期の武将・貴族で、平清盛の異母弟にあたります。平家一門の中では比較的温厚な性格とされ、平家滅亡後も生き延びた数少ない人物の一人です。彼は政治的バランス感覚に優れ、最後まで朝廷との関係を保ちつつ平家と行動を共にするという立場を貫きました。

1. 平頼盛の出自と家系

平頼盛は、**平忠盛(清盛の父)**の子であり、異母兄には平清盛がいます。

① 家系
人物 関係
平忠盛 父(平家の基盤を築く)
平清盛 異母兄(平家政権の頂点に立つ)
平頼盛 本人
平宗盛 異母兄(清盛の後継者)
母が異なり、清盛は武士としての気質を持つ一方、頼盛は比較的宮廷寄りの貴族として育ちました。

2. 平頼盛の生涯

① 平家の躍進と頼盛の立場
頼盛は清盛の弟として厚遇され、平家政権の中で重要な役職を務めました。
1156年の保元の乱、1159年の平治の乱では平清盛とともに戦い、武士としての手腕を発揮。
その後、官位が上がり、**参議(さんぎ)や中納言(ちゅうなごん)**といった高位に昇進。
② 平家政権下での活動
1180年、以仁王(後白河天皇の皇子)の反乱が起こると、平清盛は福原遷都(現在の神戸)を強行。
頼盛は、京都に残って朝廷との関係を維持する役割を担った。
清盛とは異なり、穏健派の立場を取ったため、後白河法皇との関係も悪くなかった。
3. 平家滅亡と頼盛の生き残り

① 源平合戦と頼盛の動向
1183年、源義仲が京へ進軍し、平家が都落ちを余儀なくされると、頼盛は平家と行動を共にせず京都に留まる選択をしました。

これは、武士としての忠誠よりも、公家(貴族)としての生き残りを優先した判断とも言われます。
頼盛の家は「京の平家」と呼ばれ、源氏との戦いには積極的に関与しなかった。
1185年の壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、頼盛は朝廷に仕え続けることができた。
② 頼盛の赦免と晩年
平家一門が滅亡した後も、頼盛は後白河法皇との関係を活かし、源頼朝によって赦免される。
その後も公卿(高位の貴族)として生き、1186年に死去。
4. 平頼盛の特徴と評価

① 平家の中の穏健派
平清盛が武力による政権運営を推し進めたのに対し、頼盛は朝廷との関係を重視していた。
そのため、平家が滅亡した後も生き延びることができた。
② 貴族としての生き方
武士としての活躍よりも、貴族としての振る舞いが多く、平家の「公家化(貴族化)」を象徴する人物の一人。
③ 平家の血統を後世に残した
彼の子孫は貴族として存続し、完全に平家が途絶えることを防いだ。
5. まとめ

項目 内容
生没年 1123年 - 1186年
父 平忠盛
兄 平清盛
官職 参議・中納言
特徴 穏健派、朝廷寄りの貴族
源平合戦での動向 京都に残り、平家と運命を共にしなかった
平家滅亡後 源頼朝に赦免され、公家として生き延びる
平頼盛は、平清盛とは異なる路線を取ったことで、平家の滅亡を免れ、貴族として生き延びることができた人物です。その立ち回りの巧みさが、彼を歴史に残る存在としました。