藤原道長ふじわらのみちなが

時代 平安時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 古筆・墨蹟
プロフィール 藤原 道長(ふじわら の みちなが)は平安時代中期の公卿。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。
父の兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。
一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立を生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。
晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けている。


藤原道長(ふじわら の みちなが)とは?
藤原道長(966年 - 1028年)は、平安時代中期の貴族・政治家で、摂関政治(摂政・関白が権力を握る政治)を最も極めた人物です。彼の統治により藤原氏は絶頂を迎え、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という有名な和歌を詠みました。

1. 藤原道長の生涯

① 生い立ち
966年、藤原兼家(ふじわら の かねいえ)の五男として生まれる。
母は藤原時姫。
兄たちが次々と病死したことで、藤原家の嫡流を継ぐことになる。
② 出世と権力掌握
990年:父・藤原兼家の死後、兄の藤原道隆が摂政となる。
996年:道隆が病死し、その弟・藤原道兼もすぐに死去。
その結果、道長が事実上の藤原氏の頂点に立つ。
1016年:娘の藤原彰子(しょうし)が生んだ後一条天皇が即位し、道長は摂政となる。
このように、**天皇の外戚(母方の祖父)**となることで権力を掌握し、摂関政治を完全なものにした。

2. 道長の権力の頂点

道長は、自分の娘たちを天皇に嫁がせることで、皇室と藤原家の結びつきを強めました。

娘と天皇の関係
娘の名前 夫(天皇) 生まれた皇子・皇女
彰子(しょうし) 一条天皇 後一条天皇、後朱雀天皇
妍子(けんし) 三条天皇 なし
威子(いし) 後一条天皇 後冷泉天皇
嬉子(きし) 後朱雀天皇 なし
この結果、道長の孫が3代にわたって天皇となり、藤原氏の勢力は最高潮に達しました。

「この世をば…」の和歌
道長は、孫である後一条天皇の元服の際に次の有名な歌を詠みました。

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」 (訳)この世はまるで私のもののようだ。満月のように、何一つ欠けることがないと思うほどに。

これは、彼の権力の絶頂を象徴する言葉として後世に語り継がれています。

3. 道長の政治

① 摂関政治の強化
藤原道長は、天皇の外戚として絶大な権力を持ち、政治の実権を握りました。特に以下の施策が重要です。

天皇を幼少で即位させ、自分が摂政・関白として政治を行う。
自分の娘たちを次々と皇后にし、皇室と藤原家の結びつきを強化。
重要な官職に藤原一族を配置し、他の貴族の影響を排除。
② 院政の始まりの兆し
道長の子・藤原頼通(よりみち)の時代になると、天皇が自ら政治を行う院政の時代へと移行し、摂関政治の力が徐々に衰えていきます。

4. 道長の文化的功績

藤原道長は、政治だけでなく文化・宗教にも深く関わりました。

① 平等院鳳凰堂の建立
息子・藤原頼通が道長の意向を継いで**平等院鳳凰堂(京都・宇治)**を建立。
仏教を篤く信仰し、極楽浄土への往生を願った。
② 『御堂関白記』の執筆
道長が書いた日記で、当時の宮廷政治や藤原家の様子を伝える貴重な史料。
5. 道長の晩年と死

晩年は病に苦しみ、仏教に帰依。
1028年、62歳で死去。
彼の死後、摂関政治は息子の藤原頼通に引き継がれましたが、やがて院政の時代へと移り、藤原氏の権力は衰退していきました。

6. まとめ

項目 内容
生没年 966年 - 1028年
役職 摂政・関白
権力の象徴 「この世をば 我が世とぞ思ふ…」
政治の特徴 娘を皇后にし、外戚として権力を掌握
文化的功績 平等院鳳凰堂、御堂関白記
藤原道長は、**「摂関政治の黄金時代」**を築き、日本史上最も権勢を極めた貴族の一人として知られています。