平清盛たいらのきよもり
時代 | 平安時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 古筆・墨蹟 |
プロフィール | 平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将・公卿。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任せられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた。(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。 平清盛(たいらのきよもり)について 1. 基本情報 生没年: 1118年(永久6年)~1181年(養和元年) 出身: 平氏(桓武平氏・伊勢平氏) 父: 平忠盛(たいらのただもり) 母: 不明(白河院の寵姫であった可能性あり) 正室: 時子(高階基章の娘・平時忠の姉) 子供: 平重盛、平宗盛、平知盛、平徳子(建礼門院)など 官位: 太政大臣(1167年) 2. 平清盛の時代背景 平安時代末期、日本は貴族政治(摂関政治)が衰退し、武士勢力が台頭していた時代でした。清盛の一族である平氏は、桓武天皇の子孫である「桓武平氏」に属し、当初は地方の武士でしたが、清盛の祖父・平正盛、父・平忠盛の代で中央政界に進出しました。 3. 平清盛の出世と権力掌握 ① 平氏の躍進 清盛は父・忠盛の跡を継ぎ、武士として初めて公卿(くぎょう)に列する。 保元の乱(1156年)、**平治の乱(1159年)**で勝利し、藤原氏や源氏を圧倒。 1167年、武士として初めて太政大臣に就任。 ② 保元の乱(1156年) 後白河天皇(崇徳天皇の弟)と崇徳上皇が対立。 清盛は源義朝(源頼朝の父)と共に後白河天皇を支持し、勝利。 これにより、平氏と源氏の間に差が生まれる。 ③ 平治の乱(1159年) 後白河天皇の近臣・藤原信頼と源義朝がクーデターを起こす。 清盛は素早く対応し、信頼を処刑し、義朝を討つ(義朝の子・源頼朝は伊豆へ流罪)。 これにより、平氏の時代が始まる。 4. 平氏政権と栄華 ① 武士政権の確立 清盛は朝廷内部で昇進し、最終的に太政大臣(1167年)に就任。武士として初めて公家社会のトップに立ち、平氏の勢力を盤石にする。 ② 日宋貿易の推進 清盛は経済的基盤を固めるため、宋(中国)との貿易を拡大。 **大輪田泊(現在の神戸港)**を整備し、宋との交易を活発化。 中国産の陶磁器や薬、絹織物などが流通し、莫大な富を得る。 ③ 政略結婚による皇室支配 娘の平徳子を後白河天皇の息子・高倉天皇の中宮とする。 その間に生まれた**安徳天皇(1180年即位)**を即位させ、平氏の外戚として朝廷を支配。 5. 平氏の衰退と滅亡 ① 反平氏勢力の台頭 1179年、後白河法皇と対立し、院政を停止(治承三年の政変)。 1180年、反平氏勢力が各地で挙兵(治承・寿永の乱)。 源頼朝(伊豆) 木曾義仲(信濃) 源義経(奥州藤原氏のもと) 1180年、都を京都から福原(神戸)へ遷都するが、貴族や庶民の反発を招き、失敗。 ② 1181年、清盛死去 熱病により急死(伝説では「悪行の報いで発熱し、煮えたぎるような苦しみで死んだ」とも)。 清盛の死後、平氏は衰退し、1185年の壇ノ浦の戦いで滅亡。 6. 平清盛の評価 ① 武士政権の先駆者 清盛は武士として初めて中央政界の頂点に立ち、武士政権の基礎を築いた。 彼の功績がなければ、後の鎌倉幕府(源頼朝)も成立しなかった可能性がある。 ② 実力主義の政治家 公家社会の既存の秩序を打ち破り、実力でのし上がった点で革命的な存在。 経済・貿易政策を推進し、武士の新たな収入源を確立。 ③ 独裁と奢り 強引な政治手法で貴族や他の武士の反感を買い、最終的には全国的な反乱を招いた。 後白河法皇との対立が、源氏復興のきっかけを生んだ。 7. まとめ 平清盛は、日本史上初めて武士による全国的な政権を樹立した人物であり、室町幕府や江戸幕府へと続く武士の時代の先駆けとなりました。一方で、強権的な政治が反発を招き、最終的には平氏滅亡へとつながります。 その業績は、貿易振興、経済発展、武士の地位向上といった革新的な一面と、独裁的な支配、貴族社会との対立といった失敗の一面が混在しています。 平清盛が築いた「武士による支配」は、後の日本の歴史に大きな影響を与え、鎌倉幕府(源頼朝)や室町幕府(足利氏)へと受け継がれていきました。 |