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東 東洋(あずま とうよう、宝暦5年(1755年) - 天保10年11月23日(1839年12月28日))は、江戸時代中期から後期の絵師。幼名は俊太郎、のち儀蔵。姓・氏は東、名・通称は洋。よって本来は単に「東洋」とするべきだが、本項目では一般的な表記である「東東洋」を採用している(後述)。字は大洋。最初の号は、玉河(玉峨)で、別号に白鹿洞。
仙台藩御用絵師を勤めた近世の仙台を代表する絵師の一人で、小池曲江、菅井梅関、菊田伊洲らと共に仙台四大画家の一人に数えられる。

伝記
生い立ち
現在の登米市石越町で、岩渕元方の長男として生まれる。ただし、東洋が5,6歳の時、一家は近隣の金成(現在の栗原市金成町)に移住した。父・元方は学問に通じる一方で絵も嗜み、石越の昌学寺所蔵「釈迦涅槃図」など数点の作品が確認されている。また、高知の絵師・中山高陽は、明和9年(1772年)に奥羽旅行した際、元方を訪ね「画論」を楽しんでいる。こうした環境が、東洋を絵師の道に進ませたと見ることもできる。
14,15歳の頃、各地を遊歴していた狩野派の絵師・狩野梅笑(1728-1807年)から本格的に絵を学ぶ。梅笑は江戸幕府の表絵師の一つ、深川水場町狩野家の三代目当主である。ところが、宝暦13年(1763年)から寛政5年(1793年)の30年間一族から義絶され、越後や奥州を遊歴して生計を立てており、東洋と出会ったのもその最中であった。東洋18歳の時、梅笑の婿となり江戸へ出る。姓の「東」は梅笑の姓を継いだものであり、最初の号玉河(玉峨)も梅笑の別号「玉元」から「玉」の一字から取っている。
上京と各地遊歴
しかし19,20歳の頃、今度は京に上り、池大雅を訪ね『芥子園画伝』の講釈を受ける。以後半世紀、しばしば旅に出つつも、京都を中心に活動する。20代の東洋は、しばしば中国の古画を模写しており、古典を真摯に学ぼうとする東洋の姿勢が伺える。20代の終わりから30代初めにかけて、東洋は長崎に赴き、そこで方西園という中国人画家に学んだとされる。しかし、同時に南蘋派も学んだと推測され、京都に戻る途中の天明5年(1785年)7月、立ち寄った厳島神社に奉納した「虎図絵馬」(現存)における細かい毛描きには、長崎派風の描法が見える。
こうして各地を遊歴して帰洛した頃には、東洋は狩野派を離れていった。当時の京都画壇は円山応挙の活躍が目覚ましく、東洋もその影響を受けていく。寛政7年(1795年)東洋41歳の作「花鳥図」(個人蔵)における枝の書き方には、応挙が創始した付立技法が顕著に現れている。また、この作品は年期のある作品では初めて「法眼」落款を伴っており、この少し前に東洋は法眼位を得たと推測できる。これは東洋と親交のあった妙法院真仁法親王の助力があったと考えられる。真仁法親王の周りには、応挙や呉春といった絵師だけでなく、歌人の小沢蘆庵や伴蒿蹊、学者の皆川淇園らが出入りしており、東洋もその中に混じりしばしば合作もしている。
仙台藩御用絵師
こうした活躍が認められたのか、東洋は仙台藩の絵画制作に携わるようになっていく。寛政8年(1796年)正月、東洋42歳の時、藩の出入司支配の番外士として画工を命じられた(『桂山公治家記録』)。翌月には藩主・伊達斉村に召され、以後しばしば斉村の前で席画をしている。もちろん公的な仕事にも関わり、江戸屋敷の屛風や衝立を多数手がけた記録が残る他、文化6年(1809年)仙台城二の丸の表御門対面所・松の間の障壁画(全22面の内4面のみ現存)を描き、文化14年(1817年)には藩校・明倫養賢堂の障壁画(3図のみ現存)を描く。
東洋はこのように仙台藩の仕事をこなしつつも、活動の拠点は京都であり続けた。しかし、文政8年(1825年)71歳で仙台に帰郷。変わらず仙台藩の御用を勤める一方、藩の重臣・角田石川氏にも仕え、石川宗光夫妻や石川氏の祖・石川昭光とその家臣の肖像画を制作している。天保10年(1839年)11月23日死去。享年85。墓は、若林区荒町にある昌傳庵。
長男・東東寅、次男・東東莱も絵師。弟子に村田俊、伊藤東駿、高岡で活躍した町絵師・堀川敬周[1]など。画風は、全体に角がなく丸みを帯び、親しみやすい。別号に白鹿洞とあるように、鹿の絵が多い。また、東洋は農村の風景を好んで描いているが、これは東洋が高く評価していた江戸時代前期の絵師・久隅守景の影響だと考えられる。
東洋の姓名について
東洋自身は、自作に「東洋」とだけ署名しており、「東東洋」と記した例は知られていない。東洋が生きていた時代に刊行された『平安人物誌』での表記法から、本姓・氏が「東」で、名・通称が「洋」だと分かる。こうした表記法は、江戸時代後期の文人にしばしば見られる、中国風に二字の姓名の名乗ったのと同じ趣向とも考えられる。なお、「東東洋」と呼ばれたのは存外に早く、画を好み東洋とも交流のあった仙台藩の儒者・桜田澹斎の著作に既に見受けられる。

小池 曲江(こいけ きょっこう、宝暦8年(1758年) – 弘化4年9月8日(1847年10月16日))は、日本画家。現在の宮城県塩竈市生まれ。仙台藩四大画人の一人。名は維則、字は子翼、通称は周蔵、與八郎。雅号は曲江、甘眠堂。南蘋派に学んだ。

代表作品
「波雁図屏風」 山形美術館長谷川コレクション 六曲一双 紙本金地著色 享和3年(1803年)
「孔雀図屏風」 仙台市博物館 六曲一双 紙本著色 享和3年(1803年)
「塩竈松島図巻」 仙台市博物館 1巻 絹本淡彩 文化7年(1810年)
「松島真景図巻 (まつしましんけいずかん)」 宮城県教育委員会 1巻 絹本淡彩
「塩竈松島図屏風」 鹽竈神社博物館 六曲一双 紙本墨画淡彩
「福禄寿図 (ふくろくじゅず)」文化13年(1816年)
「涅槃図 (ねはんず)」 塩竈市・東園寺 絹本著色 文政4年(1821年)
「渡唐天神図 (ととうてんじんず)」天保8年(1837年)
「芭蕉翁見文治燈図(ばしょうおうぶんじとうをみるず)」 鹽竈神社博物館 紙本墨画淡彩 天保11年(1840年)

菊田 伊洲(きくた いしゅう、寛政3年(1791年) – 嘉永5年12月1日(1853年1月10日))は、江戸時代後期に活躍した狩野派の絵師。
仙台藩御用絵師を勤めた近世の仙台を代表する絵師の一人で、小池曲江、菅井梅関、東東洋らと共に仙台四大画家の一人に数えられる。

伝記
江戸出身の絵師・武田竹亭の子として仙台で生まれる。やがて仙台藩の御用絵師の一人・菊田東雨の養となる(時期不明)。菊田家は、代々江戸幕府奥絵師を勤める木挽町狩野家に弟子入りする慣わしだったため、伊洲も14歳で時の当主・狩野栄信に入門する。なお同門に6歳年長の従兄弟で、共に仙台画壇を賑わした菊田伊徳がいる。伊洲の修学は、当時の狩野派の常で10年以上に及んだ。伊洲の縮図・粉本・写生図巻が残っているが(仙台・福島美術館蔵)、それらを眺めると的確な描線で、古画の図様を学習していったことが見て取れる。しかし、その一方で谷文晁やその弟子の喜多武清、酒井抱一など江戸画壇の中心人物たちとも交流し、彼らの影響が伺える作品も残る。
天保9年(1838年)に江戸城西の丸、同15年(1844年)本丸が焼失し、それらの再建に伴う障壁画制作にも狩野派の一門として参加。嘉永3年(1850年)から同5年(1852年)高野山諸寺院の障壁画を手がける。現在確認されているのは、4ヶ所総計100面にも及び、中には門人と思われるやや劣った作品もあるものの、伊洲の代表作と言える。しかし、こうした絵師として充実期のさなか、同郷人に切られたのが原因で破傷風にかかり亡くなった。その背景には伊洲の養子問題があったらしく、伊洲の養子になろうと謀った小島源左衛門(伊達上野家士)なる人物が、その望みが遂げられないのを恨み、伊洲と養子の桂洲を傷つけ、安政元年(1854年)10月斬罪に処せられている。
仙台市内の広瀬川に架かる仲の瀬橋の北東端、旧市民図書館への入口付近に、伊洲五十回忌にあたる明治34年(1901年)建立の顕彰碑が残っている。
弟子に、養子となった菊田桂洲、杉沼無牛らがおり、娘婿に狩野養信の弟子で塾頭だった佐久間晴岳がいる。

熊耳 耕年(くまがみ こうねん=KUMAGAMI Kônen、明治2年2月12日〈1869年3月24日〉 – 昭和13年〈1938年〉8月24日)とは、明治から昭和時代はじめにかけての浮世絵師、日本画家。耕年、抱光、大然堂と号す。

経歴
生い立ち
明治2年2月12日(1869年1月2日)、仙台芭蕉ノ辻にあった老舗の仕立屋・大澤屋の次男として生まれる。本名は源助。しかし、明治維新後の社会変化に付いていけず、明治14年(1881年)ごろ大澤屋が没落。父は福島県本宮町に開業した仕立屋の糟澤屋に職人兼師匠として赴き、耕年は奉公に出る。明治15年(1882年)、14歳で父を亡くす。父はいまわの際に息子の手を取り「大澤屋の暖簾を……」と言い残した。
上京
明治21年(1888年)仕事に耐えられず上京し、月岡芳年に内弟子として入門。同門の坂巻年久(のちの耕漁)とともに「三十六怪撰」「月百姿」の助手をするまでになる。仙台に帰省中の明治25年(1892年)6月9日夜に芳年が死去、芳年未亡人に許可を得て尾形月耕の通いの門人となる。明治26年、日本青年絵画協会第12回絵画共進会に出品、日本美術協会展覧会では褒状二等を受賞。
郷里と東京の間で
明治27年(1894年)、のちの河北新報の主筆・編集局長の藤原相之助夫婦の世話で石田きちと結婚。明治29年(1896年)、長女コウが生まれる。小圃六一らが結成した青年美術会に「三日月耕年」の名で揮毫席に座り、技能を披露。明治30年(1897年)1月17日に、『河北新報』が創刊されると、創刊号から新聞小説の挿絵を担当。明治36年(1903年)、大阪での第5回内国勧業博覧会に作品「智仁勇」で入選。明治39年(1906年)、一家をあげて(柴田耕洋、石川桂堂を連れて)上京、尾形月耕に再入門する。
明治41年(1908年)、帰郷中の夫人が死去、急遽仙台に戻る。このとき門人たちが、耕年の慰撫と夫人の慰霊のために書画会を開いている。同年秋、東宮(後の大正天皇)行啓。仙台12画家のひとりとして、宮城県下の24景勝地のうち、耕年は「榴ヶ岡」と「愛宕山」を描く。11月にはその画家たちが五城館で記念画会を開き、耕年も参加。また、仙台市長和達孚嘉の委嘱を受け、仙台百景を写しこれを献納。明治42年6月、本郷座で「画家演芸」に参加するも大損に終わる。明治43年、埼玉県知事島田剛太郎に額面を寄贈し、感謝状と木杯を受ける。
大正4年(1915年)11月10日(大正天皇の御即位大典の日)、東京淀橋の聖書学院内にて浸礼を受ける。大正7年(1918年)7月、再び「画家演芸」に参加。大正8年、『通俗基督教文庫』(福音普及会刊)にて挿絵を担当。
仙台日本画壇の重鎮
大正12年(1923年)、関東大震災により家族とともに郷里仙台に戻り、以後は地元の有力者を相手に肉筆画を描くことが多くなる。同年、仙台日本画展覧会に参加。大正13年、日本画家5人による研究グループ「白萩社」結成、耕年も参加。大正14年、白萩社同人で、東京美術学校出身の内ケ崎俊雄や同校中退の高橋清水と並んで、塩釜で結成されていた清交会の顧問となる。
昭和3年(1928年)、東北産業博覧会に出品した「芭蕉の辻図」(生家の大澤屋があった明治8年から9年〈1875 – 1876年〉ごろの同地を描いたもの)が日本画の部一等金牌賞受賞。昭和8年(1933年)5月、第一回東北美術展(今の河北美術展)で弟子の畑井美枝子、三浦俊子、有川いさをが入選。昭和11年、三枚続錦絵「芭蕉の辻図」を出版。昭和13年死去、墓所は仙台市青葉区柏木の称覚寺。
「耕年」の号は芳年と月耕の二人に師事したことにより、芳年と月耕からそれぞれ一字ずつ得たものである。現在耕年の(主に関東大震災で仙台に帰って以降の)作品は、瑞巌寺宝物館、仙台市博物館、福島美術館などに複数点ずつ所蔵されている。
代表作
「芭蕉の辻図」 絹本著色 六曲一隻 仙台・インテリア美術館STAGE所蔵 昭和3年(1928年)、東北産業博覧会日本画の部一等金牌賞受賞作
「政宗と白猿」 双幅 瑞巌寺所蔵
「美人図」 絹本着色 宮城県美術館所蔵
「加賀千代女図」 墨画淡彩 福島美術館所蔵

佐藤 一郎(さとう いちろう、1946年8月26日 – )は、日本の男性画家であり、絵画材料学、絵画技術学の研究者である。東京芸術大学教授を2014年退任し、2015年現在は金沢美術工芸大学大学院専任教授である。

経歴
1946年 – 宮城県古川市に生まれ、仙台で育つ。
1970年 – 東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻卒業 東京藝術大学卒業制作、買い上げ・大橋賞受賞
1972年 – 東京芸術大学大学院美術研究科修士課程油画修了
1973年 – 東京芸術大学研究生修了後、ドイツ学術交流会留学生(DAAD)として、ハンブルク美術大学に留学(-1977)
1981年 – 東京芸術大学博士課程油画専攻を単位取得退学し、同大学美術学部絵画科常勤講師(油画技法材料研究室)(-1986)
1986年 – 東京芸術大学助教授(油画技法材料研究室)(-1998)
1995年 – 文部省在外研究員として、ウィーン美術大学修復学科に在籍(-1996)
1999年 – 東京芸術大学美術学部教授(油画技法材料研究室、兼担:文化財保存学保存修復油画研究室)
2014年 – 金沢美術工芸大学大学院専任教授
展覧会歴
1970年 – 東京芸術大学卒業制作展(買い上げ、大橋賞受賞)
1971年 – 個展(スルガ台画廊・みゆき画廊)
1972年 – 東京芸術大学卒業制作展、個展(あかね画廊)
1973年 – 安井賞候補展(1984. 1989)
1977年 – 国際形象派展(日本橋三越本店、 1981)
1978年 – 個展(ヒロ画廊、 1983. 1986. 1989. 1991)、具象現代展(上野松坂屋、 1986)
1979年 – 明日への具象展(日本橋高島屋、 1981-83)
1981年 – 油絵大賞展(セントラル美術館・佳作賞)1984日本青年画家展(日本橋高島屋、 1985.87.88)
1985年 – 具象絵画ビエンナーレ(神奈川県立近代美術館他)、みやぎの五人展(宮城県美術館)
1993年 – IMA「絵画の今日」展(新宿三越美術館、 1995. 1997)
1996年 – うしく現代美術展(牛久市市民会館、- 1998、2000-2007)
2003年 – 個展(東海ステーションギャラリー)
2004年 – 個展(日本橋三越本店、仙台三越)
2005年 – 「Reflex展」(本学陳列館)、「D/J Brand 展」(本学美術館)
2007年 – 日本美術「今」展(日本橋三越本店)
2014年 – 佐藤一郎退任記念展(東京芸術大学大学美術館)
著書・訳書・論文
1977年 -「テンペラと混合技法」アトリエ No.605
1980年 -『マックス・デルナー:絵画技術体系』(美術出版社)翻訳
1982年 -「感覚の再現としての透層」季刊みずゑ 第1号
1985年 -「ルーベンスの絵画作品と油粗描」三彩8月号
1986年 -「エル・グレコ ディテールを読む」季刊みずゑ941
1987年 -「明治期油画作品の自然科学的調査による材料、技法、保存、修復に関する基礎的研究 I- IV」東京芸術大学美術学部紀要 22-25号)
1988年 -『絵画技術入門』(美術出版社)、「見ること描くこと」岩波講座『教育の方法』7巻
1991年 – 現代の屏風絵(山梨県立美術館他)
1992年 – 『明治前期油画基礎資料集成』(中央公論美術出版)共著、「浅井忠「収穫」と「写真の位置」」東京芸術大学美術学部紀要 27号
1993年 – 『クルト・ヴェールテ:絵画技術全書』(美術出版社)監修翻訳、IMA「絵画の今日」展(新宿三越美術館、 1995. 1997)
1996年 – 「東京美術学校西洋画科油画作品の研究I-VI」東京芸術大学美術学部紀要31-36号、うしく現代美術展(牛久市市民会館、- 1998、2000-2005)
2000年 – 「ペンの種類と発達」「筆記インクの変遷」『印刷博物誌』凸版印刷
2001年 – 「理想的な油絵具」ホルベイン工業産学共同研究(-2007)
2003年 – 「東京美術学校西洋画科自画像および学生制作品の研究I- V」東京芸術大学美術学部紀要38-43号
2004年 – 『明治後期油画基礎資料集成』(中央公論美術出版)共著、「流出文化財バーミアーン壁画調査研究」東京文化財研究所との共同研究(-2005)、「デジタルメディアを基盤とした21世紀の芸術創造」(科学技術振興機構)研究(-2007)
2005年 – 『トンプソン教授のテンペラ画の実技』(三好企画)翻訳
教育活動・社会活動[編集]
絵画科油画専攻「絵画実技」「絵画材料」「絵画技術」、共通科目「絵画技法史・材料論」、その他文化財保存学科、藝術学科の集中講義を担当・岩手大学 (1979-81) 、宮城教育大学 (1984. 87.90. 93) 、群馬大学 (1981-83) 、筑波大学 (1986.87,05,07) 、三重大学 (1984.85.88. 91. 93.94) 、愛知県立藝術大学 (1992-95.97-07) 、沖縄県立藝術大学 (1995.98.99) 、高知大学 (1999,03) 、信州大学(2000,03)、川崎市市民アカデミー(1997-07)、妙高高原夏の藝術学校(1998-07)、集中講義および油画実技を担当 ・ドイツ学術交流会試験官 (1993-95,97-98,06-07) 、宮城県美術館石膏管理委員会委員 (1993-00) 、大学評価学位授与機構臨時専門委員(2000-07)、文化財保護藝術振興財団評議員(2002-07)、大学設置、学校法人審議会(大学設置分科会)美術専門委員(2004-07)、アートアニュアル(せんだいメディアテーク)審査員(2001-05)、「ファン・エイク」(1996,2005)「ベラスケス」(1999)NHK教育TV『新日曜美術館』、「ラピスラズリ」NHKBS2『なんでもクラフト』(2000)、「油絵具の特徴」放送大学講座『物質環境講座』(2001)、「台東区賞展について」(古川市講堂)講演(2001)、「油画を読む」(大川美術館)(2002,04)、「絵画技術学」(杭州、中国美術学院)講演(2007)
代表作品
『透視肖像の図』 1969-70
『調色板と電熱器』 1976/1977
『青葉』 1984
『那智大滝』 1997
『蔵王御釜』 2005

サトル・サトウ(佐藤 達、さとうさとる、1945年11月14日 – )は、フランスを拠点に活動する画家、造形作家。宮城県登米市出身。宮城県佐沼高等学校卒。
1969年、パリでデビュー。1979年、「鉛直主義」を世界に向けて宣言し国際的抽象画家となったサトルは、幾何学構成的絵画から立体作品、環境造形作家として、パリを拠点に多くの制作、発表を各国で行っている。

略歴
1945年 – 宮城県登米郡石森町(いしのもりちょう、現登米市中田町石森)に生まれる。宮城県佐沼高等学校卒業。
1969年 – 東洋美術学校卒業、その年、パリ国立美術学校に留学、1974年迄学ぶ。
1970年 – エジプト旅行、ピラミッドに出会い、構成、構造、幾何学の原点に触れ、衝撃を受ける。
1972年 – パリで初めての企画個展、パリ招待サロン、レアリテー・ヌーベルに出品。
1973年 – ミシェル・スフォール、岡本謙次郎と出会い、大きな影響を受ける。この頃より、パリの幾何学構成主義的作家達と交流を持ち、グループ展等に参加し始める。
1976年 – パガニー野外彫刻美術館より依頼され、モザイクを制作。イタリア
1979年 – パリにて、鉛直主義を唱える。
1986-2004年 – パリの現代サロン、グランエジュンヌドージュドウイの運営審査委員に任命される。
1988年 – 宮城の五人展に招待出品。宮城県美術館、仙台
1989年 – 在仏20年記念展が、有楽町・そごう、仙台・藤崎、銀座・モリス・ギャラリー、新潟の創庫美術館、パリ・ギャラリー・コンベルジャンス等で開始され、作品集が創庫美術館より出版される。
1990年 – 御影石による、初めての野外彫刻制作。南方中学校
1991年 – 1%制作、ブルガンブレス市立中学校に環境造型アート作品を制作。
1991-2007年 – 国立パリ大学第八、造型美術学科講師を勤める。
1992年 – みなみかたアート・フェステバルを企画、7人の現代彫刻家・現地制作(登米市南方町)、全国的にテレビ、ラジオ、新聞等で報道される。
1994年 – 登米祝祭劇場庭に、御影石による作品を制作。
1995年 – 登米市夏川、ポンデザール(芸術橋)橋全体と周りの自然を取り入れた環境造型的作品を制作。
1996年 – 仏・クレルモン・フェラン、御影石に寄る環境造型作品制作。700 x 1400 x 4500cm
1998年 – エクアドル・キトのメトロポリタン公園にコンクリートで環境造型作品制作。700 x 1500 x 4500cm、エクアドル政府より第一等文化功労賞を受ける。(日本人では野口英世博士はじめ3人目)
2000年 – 韓国・山清郡の国際彫刻シンポジュームで大賞を受賞。
朝鮮戦争終結50周年記念国際彫刻シンポジュームにて、釜山広域市南区の名誉区民賞を受賞。
登米市中田町、諏訪公園、2.5ヘクタールの空間環境造型アート作品を完成。
2001年 – レバノンで野外造型作品を制作。
2003年 – 韓国民族村にて、野外造型作品を制作。
2004年 – 台湾、桃園県にて、野外作品を制作。550 x 460 x 2000cm
米国、プエルト・リコ大学本部公園にて野外作品を制作。680 x 1000 x 2200cm
2005年 – ベネズエラにて、環境造型作品を制作。
石ノ森章太郎ふるさと記念館隣、安永寺(中田町石森)の為に、”無常の響き”制作。
2006年 – アンドラ国、郵政局より、2004年制作の環境造型作品の作品(900 x 600 x 5050cm)の作品が、切手として30万枚発行される。
2007年 – 故郷である宮城県登米市中田町にサトル・サトウ・アート・ミュージアムが開館。
2008年 – パリ招待サロン、レアリテー・ヌーベル(幾何学構成絵画)の運営審査委員に任命される。
これまで、個展70回、グループ展380回、環境造型作品制作設置は40点を数え、30ヶ国で発表。

菅井 梅関(すがい ばいかん、天明4年10月27日(1784年12月9日) – 天保15年1月11日(1844年2月28日))は江戸時代後期の文人画家。菊田伊洲・東東洋・小池曲江とともに仙台四大画家と称揚される。
名は岳・智義、字を岳輔・正卿、号ははじめ東斎としたが梅館・梅関に改めた。奥州仙台の生まれ。

略歴
仙台柳町の老舗茶舗「名取屋」を家業とする鈴木氏の長男に生まれたが、幼少より画を好んだので、家督を弟に譲ってひたすら画の修行を行った。日々、菅原道真の神像を描いて励みとし、鈴木姓から菅井姓に改姓。初号を東斎とした。
瑞鳳寺住職の古梁紹岷(南山禅師)に詩・書・画の手ほどきを受け、古梁に従って塩釜・松島に遊ぶ。また遊歴の画人として知られる仙台藩絵師根本常南に就いて画を学び、雙林寺では「涅槃図」の合作を行っている。
画才を認めた常南に江戸行を勧められ、谷文晁の門戸を叩いたが文晁の北宗画風が受け入れられず、同郷の画家東東洋を頼って京都に上り、古画の鑑賞や臨模を熱心に行った。骨董商で偶然目にした扇面図に強く惹かれ、この図が長崎に滞在している清の画人江稼圃の作と知るとすぐさま長崎行きを決意。
長崎では稼圃に実力を見いだされ、画法・書法のみならず文人として必要な詩文・経学の知識・教養まで親しく教授された。また弟の江芸閣にも詩・書・画の指導を受けている。以来、京坂を往来しながらも長崎には十数年滞在。木下逸雲・諸熊秋琴・水野眉川・竜梅泉らと交友。長崎に遊歴した田能村竹田や頼山陽とも知り合う。梅関が長崎を辞するとき師の稼圃は梅関に墨梅図を描かせ、後に清国に持ち帰ったという。このとき師の恩義に報いようと号を東斎から梅関に改めた。
文政6年(1823年)頃には大坂御堂筋瓦町に居を構え、頼山陽・篠崎小竹・岡田半江・金井烏洲・八木巽処らと交友。天保元年(1830年)には山陽宅の水西荘にてその居宅風景を描き山陽の詩を添えて「水西荘帖」として合作した。
梅関の山水図は当時釧雲泉と並称されるほど名声があり、また豪快で荒々しい筆致の墨梅図が高く評価された。
母が没し弟が失明したと報を受けて帰郷する。涌谷領主の伊達桂園に仕え、僧・古梁紹岷、画人・東東洋、儒者・大槻盤渓、蘭医・佐々木中沢らよき理解者らと親交を結ぶ。しかし、盲目の弟とその家族を支える生活は厳しく、折からの飢饉も加わって貧窮を堪え忍ばざるを得なかった。このような事情のためか梅関は生涯を独身で過ごした。文人としての矜持をもって過ごすも、支援者・理解者の相次ぐ訃報に接し、ついに心が折れ天保15年(1844年)正月、自ら井戸に身を投げる。享年61。葛岡正雲寺(仙台市)に墓所がある。

林 竹治郎(はやし たけじろう、1871年 – 1941年)は日本の画家である。「朝の祈り」という名画を描いたことで知られる。ハンセン病患者のために生涯を尽くした医師林文雄の父。

経歴
1871年に宮城県に生まれ、仙台師範学校へ入学した。師範学校在学中1889年にキリスト教の洗礼を受けた。1889年上京して、東京美術学校へ入学して、3年後の1892年東京美術学校の特別課程を卒業すると、1898年9月北海道師範学校の教諭になった。2年後に退職し、札幌第一中学校(現北海道札幌南高等学校)の教諭として28年間美術を教えた。また、日本基督教会札幌北一条教会の長老として、新島善直や長崎次郎らと共に教会を支えた。
一中の退職後は藤高等女学校で14年間教えた。
旧制札幌一中の図画の教師をしている時に、1905年に第一回文部省美術展に「朝の祈り」が入選した。
1927年に息子の文雄が東村山のライ病棟に行くことを反対したが、文雄は反対を押し切って行った。何度も文雄を奪回しようと試みたり、文雄に繰り返しお見合いを勧めたが失敗した。
1936年文雄が大西富美子と結婚すると、1939年に鹿児島のライ療養所にいた文雄の家に、妻こうと一緒に札幌から転居し、文雄の家を「楽園」と呼んで1941年に歿するまで住んだ。文雄と共にハンセン病患者を励まし、絵画の個展を開いて、売り上げ金をハンセン病患者に捧げた。

小室 達(こむろ とおる、1899年(明治32年)8月10日 – 1953年(昭和28年)6月18日)は、日本の彫刻家。

来歴
1899年(明治32年)8月10日、宮城県柴田郡槻木村大字入間田(現・同郡柴田町。地図)に、小室源吾(後の槻木町長)の三男として生まれた。
1919年(大正8年)、(旧制)白石中学校(現・宮城県白石高等学校)を卒業すると、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科塑造部に進学した。その後、同校を首席で卒業し、研究科に進んだ[1]。
第4回「帝国美術院展覧会」(帝展。現・日本美術展覧会)に初出品すると、第5回帝展からは無鑑査となり、27歳ながら日本美術界での地位を確立した。
1953年(昭和28年)6月18日、肺結核のため53歳で逝去。
伊達政宗騎馬像
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金属供出から逃れた部分で胸像化された小室達作(初代)伊達政宗騎馬像(仙台城三の丸、2007年8月撮影)。
1933年(昭和8年)11月26日、「伊達政宗公三百年祭協賛会」が第30代内閣総理大臣・斎藤実(旧仙台藩・水沢伊達家の家臣の三男)を総裁として宮城県および仙台市の連合で結成された。同年、小室は宮城県青年団から政宗の銅像制作を依頼され、1601年(慶長6年)4月に仙台藩祖・伊達政宗が仙台城(青葉城)に入城した姿を写した「伊達政宗騎馬像」(伊達政宗卿像)の制作を開始した。政宗の300回忌にあたる1935年(昭和10年)5月24日を中心に、5月20日から26日まで仙台市を中心に宮城県内各地で記念事業が開催されたが、このとき「伊達政宗騎馬像」も仙台城本丸に建立された。
アジア・太平洋戦争下で日本が物資不足に陥ると、国家総動員法(1941年8月30日公布、同年9月1日施行)にもとづく金属類回収令により1944年(昭和19年)1月に供出され、仙台城から同像は姿を消した。

柳原義達作「伊達政宗公平和像」(岩出山城、2010年10月撮影)
1950年代初頭に小野田セメントが仙台市公会堂および仙台市レジャーセンターの装飾を担当したが、同社の斡旋で柳原義達制作の平服姿の政宗のセメント立像(「伊達政宗公平和像」と呼ばれる[6])が1953年(昭和28年)に仙台城に建立された[7]。

小室達作(第2代)伊達政宗騎馬像(仙台城本丸、2004年10月撮影)
高度経済成長期になると騎馬像の復元要望が市民から上がったため、小室の地元である柴田町槻木庁舎と槻木小学校に梱包され分散保存されていた石膏原型を用いて復元されることになった。1964年(昭和39年)3月5日午前10時、石膏原型は柴田町から仙台市観光協会に引き渡された。その後、東京にある鋳造工場に運ばれ、銅像に復元された。東京オリンピック開会式の前日にあたる同年10月9日の午前11時より復元除幕式が行われ、(第2代)「伊達政宗騎馬像」が仙台城に再建された。一方、仙台城に設置されていた「伊達政宗公平和像」は同年、政宗が仙台城に移る前に居城としていた岩出山城(現・宮城県大崎市岩出山)に移設された。
1998年(平成10年)3月から始まった本丸北壁石垣修復に伴い、同年5月に(第2代)「伊達政宗騎馬像」を南側に約20m移設した。
「伊達政宗騎馬像」は現在、原型試作品が竹駒神社馬事博物館(宮城県岩沼市、地図)に、初代の金属供出されなかった部分を用いた胸像が仙台城三の丸(仙台市博物館の庭、地図)に、復元された第2代が仙台城本丸(地図)に、各々設置されている。

佐藤 忠良(さとう ちゅうりょう、1912年7月4日 – 2011年3月30日)は日本の彫刻家。
新制作協会彫刻部創立会員。生き生きとした女性像などをブロンズや木彫で表現した。福音館書店版の絵本『おおきなかぶ』の挿絵なども手がけた。桑沢洋子の親友でもあり、教育者として東京造形大学において創立より多数の後進の教育に携わった。女優の佐藤オリヱは娘。

年譜
1912年、宮城県黒川郡大和町落合舞野に生まれる。6歳で父が死去したため幼少期は母の実家である北海道夕張で過ごす。
1925年、旧制札幌第二中学(現北海道札幌西高等学校)に入学。
1932年、上京し川端画学校にて学ぶ。
1934年、東京美術学校彫刻科入学。
1939年、美校卒業後、同期の舟越保武らと共に新制作派協会彫刻部の創設に参加する。
1945年から1948年までシベリア抑留に遭う。
1954年、第1回現代日本美術展佳作賞受賞。
1960年、第3回高村光太郎賞受賞。
1966年、東京造形大学創立と共に教授に就任。
1974年、第15回毎日芸術賞、芸術選奨文部大臣賞受賞、翌年には第6回中原悌二郎賞受賞、第3回長野市立野外彫刻賞受賞。
1977年、第5回長野市立野外彫刻賞受賞。
1981年、フランス国立ロダン美術館で個展。
1986年、東京造形大学名誉教授。
1989年、朝日賞受賞。
1990年、宮城県美術館内に佐藤忠良記念館設立。
1992年、第41回河北文化賞受賞。
2011年3月30日、老衰のため東京都杉並区の自宅で死去。98歳没。
生前、日本芸術院会員に推薦され、文化功労者や文化勲章の候補にも選ばれたが、本人は「職人に勲章はいらない」と語り、これら国家の賞を全て辞退した。

武藤 順九(むとう じゅんきゅう、1950年2月18日-)は日本の男性彫刻家・画家。仙台市出身。
1973年に東京芸術大学を卒業し、ヨーロッパに渡る。イタリアのローマと彫刻の町ピエトラサンタにアトリエを構えて、大理石の彫刻を中心に抽象的なテーマの彫刻を制作している。1997年にピエトラサンタでヴェルシリア賞国際グランプリを受賞した作品「風の環(わ)・PAX 2000」は、2000年7月25日にカステル・ガンドルフォにあるローマ教皇の避暑用の離宮に永久設置された。その後、「風の環」と題した彫刻作品を世界各地に設置する。

堤焼(つつみやき)は宮城県仙台市にて焼かれる陶器。
江戸時代中期に仙台藩主、伊達綱村が江戸から今戸焼の陶工・上村万右衛門を招き、日用品を焼かせたのが始まり。万右衛門の没後一時衰退するが、宝永年間(1751年~1764年)に遠江国から来た菅原善右衛門が再興する。昭和初期には民芸運動の代表者、柳宗悦が「東北を代表する民窯」と誉め称えたが、今日では江戸末期から続く乾馬窯1つが堤焼の歴史を守り続けている。堤町(仙台市青葉区)一帯に窯場があったことから、堤焼という名がついた。
堤焼の特徴は、野趣溢れる釉薬にあり、特に黒と白のなまこ釉を同時に掛け流す流し掛けなまこ釉は堤焼独自の特色である。二重に流し掛けることによってふたつの釉薬が化学反応を起こし、表面に濃淡の斑が発色し、味わいのある斑紋、流紋が生じる。

切込焼(きりごめやき)は、宮城県加美郡加美町にて焼かれていた焼き物で、陶器も磁器も焼いていた。詳しい草創は未だ不明で、伊達政宗、三代目宗公など諸説紛々である。だが江戸時代には伊達藩の御用窯として繁栄し、隆盛を極めたと伝えられる。尚、その頃は高級な染付磁器を焼く一方で、民衆向けの日用雑器も多く焼かれていた。
明治時代にはすっかり凋落し、いつしか窯は廃絶した。1920年(大正9年)に地元の実業家、岩渕丈之助、沼田秀平らの手によって再興を試みるが、失敗。1990年に宮崎町が町興しの一環事業として、伝統的な切込焼の復興が行われるようになった。

特徴
切込焼の特色は、青を基調とした染付であり、技術は非常に高い。特に三彩に名器が多く、中には三種の青で濃淡を付けて彩色した三彩も見られる。また、胴がずんぐりとした辣韮徳利も切込焼を象徴する代物である。

台ヶ森焼(だいがもりやき)は、宮城県で造られる陶磁器。

概要
仙台藩主伊達家十代宗廣公なども利用した湯治場の一つ。台ヶ森周辺から取れる土を使い、そこで造られる。
台ヶ森の周辺の地質は、付近で第四紀に生じた火山活動の影響で凝灰岩などが分布し、銅や鉄を多く含む傾向にあること。また石炭化が進んでいない亜炭が豊富に存在する特徴がある。こうした地質条件が、陶器の材料となる粘土に大きな影響を与えていると考えられている。
台ヶ森遺跡などの近隣周辺遺跡から窯跡や縄文時代の土器が多数出土しており、奈良時代初期には、仙台の台ノ原・小田原丘陵から台ヶ森周辺にかけて、政庁府である多賀城に収める瓦や器を焼く国衛窯が点在していたことが文献に残っている。
台ヶ森から南東側に位置する宮床地区に江戸時代(天保年間)に焼かれた皿が伝世し、窯跡も発見されている。
江戸時代までは、火山灰質の土も利用し、陶器が作られていたことがいまに伝えられている。
1976年初代窯元 安部勝斎は、この地に昇炎式・横炎式・倒炎式の窯を築台ヶ森焼周辺で産出される土を使い、現在の台ヶ森焼が誕生している。
産出される土には、亜炭、鉄、銅など様々な鉱物が含まれ、それにより複雑な色合いが生まれるとされている。

宮城伝統こけし(みやぎでんとうこけし)

東北固有の工芸品である伝統こけしは,江戸末期ごろ,東北地方の温泉地において子供のみやげ品として生まれたものと伝えられています。
宮城県内には「鳴子こけし」「遠刈田こけし」「弥治郎こけし」「作並こけし」「肘折こけし」の5系統があります。
伝統こけしの魅力は,もっとも簡略化された造形美に加え清楚で可憐な姿にあるといわれ,独特の形,模様を通して今日に受け継がれています。

雄勝硯(おがつすずり)

1396年(室町時代)ごろ、既に石巻市内で硯石が産出されていたと伝えられています。応永の昔より名硯として賞美され、以来600年の歴史と伝統が受け継がれています。
雄勝硯の原石は、黒色硬質粘板岩で粒子の均質さ、光沢などから、硯の原石として最も優れた特徴を持っています。市内の山から露天掘りで採石され、国内の硯の90%を供給する代表的な産地です。また,雄勝硯は平成26年12月に特許庁の地域団体商標に登録されています。

鳴子漆器(なるごしっき)

1624~1644年(江戸・寛永年間)ごろ,既に創始されていたと伝えられています。
鳴子漆器の特徴は,独特の塗立技術にあり,素地を生かした「木地呂塗」と墨流しの技法の「竜文塗」等があります。製品には,下地の堅牢さとしっとりした美しさがあります。

白石和紙(しろいしわし)

東北における紙は,平安朝中期に陸奥守(むつのかみ)が朝廷に持参したことが知られています。また,清少納言や紫式部は,枕草子,源氏物語の中で,みちのくの紙は「ふくよかに,清く,うるわしく」と記しているなど,格調高い紙であったことが伺えます。
白石和紙の生産は,伊達政宗の殖産奨励によって拡大され,奉書から厚紙,ちり紙など約60種の和紙が漉かれ,藩内の需要を満たしていたと言われています。
白石和紙は,丈夫でふくよかなため,染色し,ハンドバッグや札入れなどに加工されています。

堤焼(つつみやき)

1688年~1704年(江戸・元禄年間)ごろ,城下町仙台の北街道にある堤町で生まれた,台原の土と鷺ヶ森の谷間の岩石やお米の籾殻灰を釉薬(ゆうやく)とした素朴で力強い焼物です。    また,堤焼は,仙台古来の焼物として京都乾山風の伝統を受け継いでいます。
原材料は,仙台市内の台原や丸田沢などから産出される質のよい赤土や岩石を用い,風土性の高い陶器です。

埋木細工(うもれぎざいく)

仙台の青葉山から,約500万年もの歳月をかけて炭化した「埋木」が発見されたのは,1822年(江戸・文政5年)のことです。仙台藩の足軽武士,山下周吉が発見し,種々工夫して「掻敷(かいしき)」を作ったのが埋木細工の始まりといわれています。
埋木に残る美しい木目と拭漆によるゆかしい光沢が埋木細工特有の重量感と気品を生み出します。埋木細工は,全国にも類のない仙台独特の工芸品です。

岩出山しの竹細工 (いわでやましのたけざいく)

1716年~1736年(江戸・享保年間)ごろ,岩出山第4代城主伊達村泰公が京都から竹細工職人を招いて武士の手仕事として奨励したのが始まりと伝えられています。以来300年以上の伝統を受け継ぐ工芸品です。
しの竹細工は「しの竹」の皮の部分を用いて表皮を内側にして丁寧に編みこまれているため,指に優しく水切れが良いなど,機能的にも大変優れています。弾力性と耐久性に優れたざるやかごなどは,広く日用品として愛用され,最近はインテリアとしても見直されています。

中新田打刃物(なかにいだうちはもの)

1661年~1673年(江戸・寛文年間)ごろ,仙台藩の刃匠・舟野五郎兵衛によって創始されたと伝えられています。
名刀の製作と同様,空打式で鋼(はがね)を鍛えて焼き入れする伝統技術が受け継がれ,切れ味は最高で,特に鎌は上付鋼で上向刃のため土面との摩擦による鋼の摩耗が少なく,刈りやすく,しかも研ぎやすいなど多くの特徴を備えています。
丹念に仕上げられる刃は,一点の曇りもなく冴えわたり,切れ味の良い,使いやすい打刃物として,広く愛用されています。

松笠風鈴(まつかさふうりん)

1781年~1789年(江戸・天明年間)ごろ,仙台藩主から音色の良い風鈴を所望され,10代庄衛門が工夫を重ねて風鈴を創作し,献上したのが始まりと言われています。
松笠風鈴は,鋳物のざらざらした表面に虫が食いつぶしたような無数の穴を模様にしているのが特徴です。銑鉄と砂鉄で作る材料の配合などの製法,技法は,江田家代々による父子相伝,門外不出の秘伝になっています。
この風鈴の音色は,ひとつひとつ手作りのため異なり,余韻の美しい独特の音色がふるさとの素朴な心を伝えます。

堤人形(つつみにんぎょう)

1688年~1704年(江戸・元禄年間)ごろ,堤焼を母体として誕生したといわれる堤人形は,京都の伏見人形とともに2大源流をなすもので,郷土土人形の最高峰とされています。
江戸時代において絢爛たる発展を見せた浮世絵の作風を立体化したとも言えるもので,文化・文政(1804~1830)の頃が最盛期と言われ,多くの人形師が優れた作品を残しています。東北の玩具として知られている花巻,米沢,高田などの土人形は,いずれも堤人形が指標となって派生,分布したものと考えられます。

切込焼(きりごめやき)

切込焼の創始は,確たる文献がないため謎に包まれていますが,1844~1860年(江戸末期)ごろ全盛であったと伝えられています。この焼物は染付けが主で白磁,瑠璃,砂鉄,三彩などがあります。絵付は簡素で素朴なものが多く,わびさびが感じられます。
明治初期に一旦廃絶しましたが,現在は,加美町切込地区で復活され,製作されています。

仙台張子(せんだいはりこ)

仙台張子は,1830~1844年(天保年間)ごろ,仙台藩の藩士松川豊之進によって創始されたものと伝えられています。
仙台張子の主流である松川だるまは,着色と表情が統一された絢爛たる工芸品であり,縁起物として親しまれています。仙台張子には,ほかに黒面や張子玩具等の製品があります。

仙台釣竿
仙台釣竿は1600年代(江戸時代初期),仙台藩祖の伊達政宗公も鮎釣に愛用したと伝えられています。仙台釣竿は宮城県内産の真竹,高野竹などを材料とし,細身の竿は古竹を,太い竿は若竹を使用し,200にも及ぶ細かな工程と2~3ヵ月を要して作られる継ぎ竿の名品です。
この継ぎ竿は,一本の竹のように平均して力がかかるように工夫され,強さと美しさを兼ね備えた逸品です。

仙台平(せんだいひら)
江戸中期,貞享・元禄の頃に,仙台藩が御用織物師を召し抱え,袴・法被・能装束などを織らせたのが始まりと伝えられています。仙台平は,(資)仙台平だけが製造している周知著名な高級絹織物で,縦に柔らかく横に張りがあり,耐久性に富み,晴れの舞台や,芸道に精通する方などから高い評価を得ています。代表の甲田綏郎氏は,国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されています。

仙台御筆(せんだいおふで)

仙台御筆は,1614年(江戸・慶長年間)に,仙台藩祖伊達政宗公が藩の学問と産業振興を目的に,大坂の筆職人を雇い創始したと伝えられています。この御筆は,ひとりの筆職人により作り上げられ,細工が精緻で品質の高い毛筆です。

玉虫塗(たまむしぬり)
玉虫塗は,1932年(昭和7年)に国立工芸指導所において創意工夫し,特許を得たのが始まりで,その後,東北工芸製作所が実施権を得て製作しています。
その製法の特徴は,漆器本来の本堅地下地をほどこした後に,全面銀粉を蒔き,最後に特殊な玉虫漆で仕上げるところにあります。
木製素地や木乾漆素地に塗装を重ねて仕上げることで,玉虫の羽根に似た豊麗な色調と光沢を有することから「玉虫塗」の名前が生まれました。

若柳地織(わかやなぎじおり)

若柳地織は,1900年代(明治・大正)から若柳町(現栗原市若柳)を中心として製造された綿織物です。
この織物は,独特の色合いと縞の出し方に加え,1915年に豊田佐吉翁が発明した豊田式鉄製小幅動力織機(Y式)ならではの風合い・肌触りをもっています。従来,製品は農作業着として広く利用されてきましたが,現在は,室内着,ネクタイ,名刺入れなど多様化してきています。

仙台箪笥(せんだいたんす)

仙台箪笥は,江戸末期から製造されはじめ,明治大正にかけて現在の仙台箪笥が定着したといわれています。仙台箪笥は,4尺箪笥が原型で,木地は欅を主体とし,木地呂塗りで仕上げ,牡丹や唐獅子などの文様の手打ち金具で装飾しており,堅牢で重厚な箪笥で,「指物」「漆塗り」「金具」の3つの熟練した職人技によって生み出されています。
平成27年6月18日に伝統的工芸品産業の振興に関する法律に定める伝統的工芸品として,経済産業大臣に指定されました。

仙台堆朱(せんだいついしゅ) 仙台堆朱は,明治時代末期に宮城刑務所に招かれた新潟県村上堆朱の工人川崎栄之丞によって技術が普及され,耐熱・耐水性に優れた現在の仙台堆朱の基礎が確立されました。木地の彫刻を能率化するために開発された,型押による工法が仙台堆朱の特徴です。

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